「政治と文学」という主題は、今日あまりに古めかしく聞こえるだろう。しかし両者はかつて切り離し得ない関係にあった。さほど昔の話ではない。戦後派世代が現役で書いていた1970年代には、ごく当たり前に論じられたテーマだった。だがその前提は1980年代に入って急速に崩れ、消滅する。政治は公的な事柄を扱い、文学は私的な領域を担うという、棲み分けが当たり前になるのだ。以降、文学は外部への想像力を失くし、自閉してゆくことになる。「言葉が扼殺された世界」という表現に託されていたのは、おおよそそのような風景だろう。桐山はこの潮流に逆らい「政治=文学」の試みを続けた稀有な書き手だった。
誤解を招かぬよう付け加えておくと、政治信条やスローガンを作中に盛り込むことが「政治=文学」の要件なのではない。自身が属する世界を描こうとする際、当然そこに介入してくるはずの権力構造や歴史的過程を、細大漏らさず考え抜くこと。そのための想像力を手放さないことが必要なのだ。桐山が「天皇」や「テロ」、「沖縄」といった主題に行き当たったのも、そうした経路を辿った結果だった。そう考えてみると桐山がやったことは、きわめてまっとうな文学の営為に過ぎない。
先述したインタビューの3年後の1992年、桐山は世を去る。それからさらに30年が過ぎた今日、文学を取り巻く環境はどうなっているか。改めて確認するまでもない。言葉は扼殺され続け、現在の異様さはますます顕著になってきている。そのことが問題視されることさえ、稀なのが現状だ。なるほど「失われた20年」を経て日本社会は確実に貧しくなった。社会的矛盾は露呈し、いよいよ誤魔化しきれなくなってきている。相対的豊かさが覆い隠してきた軋轢が、次々噴出し続けているためだ。しかしそうした状況を受け止めるには、文学の言葉はあまりに痩せ細ってしまっている。
桐山はインタビューのなかで「私が一つの突破口をつくることによって、多くの表現者が生まれて来るという夢がある」と語っていた。残念ながら、「夢」はいまだ「夢」のままだ。たしかに「政治」を語る作品はある。「歴史」を題材にした作品もある。「戦争」を描いた作品だってある。書き手にとって今日ほど、情報環境に恵まれた時代はないだろう。主題はいくらでも任意に選択できる。しかしそれらを我が事として受け止める想像力が欠けている限り、すべては絵空事に過ぎない。各々のジャンルの流儀に従い、消費されるだけ。時期が過ぎれば、何の爪痕も遺さずに消えゆく。だがしかし、それでいいのか。
と他人事のように語る権利は、実のところ筆者にもない。自分もまた現代文学の末席を占める書き手の一人だが、近年ほとんど生産的な仕事が出来ていない。怠けているつもりはないが、事態は悪化の一途を辿っている。弁解が許されるなら、媒体の問題は深刻だ。出版業そのものが先細りしてゆくなか、版元はますます余裕がなくなってきている。売れ筋の作品、話題を呼ぶ書き手、無難で口当たりのよい題材ばかりが優先され、他は見向きもされない。こんな状況で、いったい何が為し得るというのか。
先行きを考えるほど暗澹たる気持ちになるが、それでも続けてゆくしかない。1980年代を通して、桐山がほとんど孤立無援の状態のまま書き続けたように。少なくともこの作家の存在は一つの希望たり得ている。
我々を囲繞(いにょう)する世界と我々自身の関係を、それが成立した経緯を含めて描き出すこと。そのために、言葉を絶えず外の現実に開いてゆくこと。桐山が選んだまっとうすぎるほどまっとうな手法はたぶん、文学を続けてゆく唯一の細道だった。その姿勢から学ぶべきことは多い。彼の開いた「突破口」の先に、どのような風景が広がっているのか。その可能性を見極める仕事を、現代の書き手として引き継いでゆきたい。