僕の場合は、試合中にいいプレーがあると、選手に「いまの最高によかったね」と声をかけるようにしていました。試合前にメンバーリストが発表されると、僕は選手の名前と警告枚数と誕生日をチェックしていました。「〇〇さんおめでとう!」とか「〇〇さん警告3枚もらっているから今日は気をつけようね」と言葉をかけられますからね。あとは、SNSで選手が結婚したとか、お子さんが産まれたという情報も入れていました。
印象に残っているのは、いまコンサドーレ札幌にいる興梠慎三選手。彼が鹿島アントラーズにいた若い頃、腕の使い方がうまくなかったんです。なので、興梠選手に「慎三、その腕の使い方は露骨過ぎる。そのままだと全部ファールとしてとらざるを得ないよ」って声をかけた。それで、「俺はファールするなとは言わないから、もう少しうまく腕を使ってよ。その代わり、俺がファールと思ったものは全部、とるからね。これは、俺とお前の勝負だ」って(笑)。そう言ったら、どんどん彼の腕の使い方がうまくなっていったんです。あるとき彼に、「最近、ほんとに腕の使い方、うまくなったね。あれじゃあ、俺もファールとれないや」と言ったら「でしょう」って(笑)。
あとは、サンフレッチェ広島の青山敏弘選手は、彼が若いときからよくコミュニケーションをとっていた選手のひとりです。彼は長く広島のキャプテンを務めていたし、ものすごく信頼している選手です。
試合が荒れていて少し広島の選手がイライラしているなと感じたときは、よく青山選手と話しましたね。「アオ、俺があの選手に直接言ってもいいんだけど、アオのこと、信頼しているから、アオからよく伝えてもらってもいい?」と言って「わかりました。ありがとうございます!」みたいなやりとりをしていました。
ただ僕は別に選手と友達になりたいわけでも、ごまをすりたいわけでもないです。観ている人がフットボールを心から楽しんでもらうこと、そして選手にリスペクトを示すことで、彼らが気持ちよくプレーして、いい試合になってほしいだけなんです。
僕は元々、プロ審判になる前に京都サンガの職員だったので、知っている関係者や選手も多かった。そういう蓄積の中で選手たちとコミュニケーションをとれていた部分もあったと思います。他の審判をされている方が、僕みたいなやり方でうまくいくわけではないでしょうし、その人の性格や人柄に合ったレフェリングで、選手とやりとりするほうがいいと思いますよ。
――今後、最新のテクノロジーが次々と入ってくることによって、よりジャッジの厳密さや公平さが求められてくることも考えられますか?
大事なのは、それが何のためか? ってことですね。いまのJリーグチェアマンの野々村芳和さんがフットボールを〝作品〟にたとえているんですけど、僕は昔からフットボールは〝アート〟だと思っているんです。選手もレフェリーもアーティストで、だから選手とコミュニケーションをとるのもすべて彼らと質の高い〝アート〟を創り出すためだったんです。質の高い〝アート〟は観ている人に喜びや感動を与えることができますね。それは正しいとか、間違いとかでは判断できない世界にあるものだと思うんです。
あと、アートには〝美〟だけでなく〝醜〟の部分もある。たとえば紅葉は、離れて見ると美しいけど、近くで見ると枯れている葉や、折れている枝もある。その〝醜〟の部分もあって、〝美〟が映えていると思うんです。
フットボールも同じで、ミスもあるし、ファールもある。その〝醜〟の部分があるからこそ面白さや感動が生まれたり、より引き立つのだと思うんです。
そもそも、すべてのジャッジのミスをなくそうという方向に動くならば、フットボールの競技規則もその精神も変えなければならない。競技規則の精神に「審判は人間であるため、 必然的にいくつかの判定が間違ったものになったり、論争や議論を引き起こすことになる。人によっては、これらの議論が試合の楽しみや魅力の一部となっている。しかし、判定が正しかろうと間違っていようと、競技の『精神』は、審判の判定が常にリスペクトされるべきものであることを求めている」とあるんです。人がフットボールをプレーする以上ミスがなくなることはないという前提で、いまのフットボールは成り立っているんですよ。
もしかしたら、今後、テクノロジーを導入して、ミスをなくして〝美〟を増やそうという動きが加速するかもしれない。だけど、それは必ずしも悪いことではない。でも、〝醜〟があってこその〝美〟ということを理解していないと、すべての〝醜〟を打ち消そうとして、悩まなくてもいいことで悩んだり、問題がなかったことが問題になったりする。そういう難しさが出てくると思うんです。テクノロジーは、あくまでフットボールという〝アート〟をつくるための手段でしかないことを、忘れてはいけないと思います。