あるいは先ほど述べたような東日本大震災の「心理学化」の結果、津波・地震という自然災害と人為的な原発・原子力の問題が切り離されてしまう、という問題もあるだろう。ほんの一瞬、福島第一原発が映ったり、汚染度を詰めたフレコンバックや立入禁止地区の看板が出てきたりして、目配りはしてあるが、それが正面から描かれることはついにない(たとえばミミズの表現に影響を与えただろう『もののけ姫』のダイダラボッチは、明らかに原子力的なもののメタファーとして読み取れるが、ミミズの表象にそうした含意を感じることは難しいだろう)。
東日本大震災という経験は、この国の東京と地方の格差、電力や原子力をめぐる内的矛盾などを露呈させたはずなのに、『すずめの戸締まり』では、あたかも震災の傷は「日本国民=日本人全体の傷」であるかのように表象されてしまうのだ。少なくともそのようにズルズルべったりなものに感じられてしまう。つまり「震災というトラウマを受容する傷付いた主体=純粋国民」として……。
その点ではたとえば、映画公開に先立って刊行された『小説 すずめの戸締まり』(2022年、角川文庫)の描写に比べて、映画版の『すずめの戸締まり』では皇居という場所の意味の重要性がやや曖昧なものにされること、さらには、アジアや中東の労働者が「存在しない」のにローソンのバイト店員が白人女性であること、等々も気になるところだ。『すずめの戸締まり』の「日本」は、本当に、日本列島の人々の現在の生活や暮らしを的確に反映しているのだろうか、この作品は震災というトラウマに向き合うことによってまさに見たいものだけを見ているのではないか、と。
過去作『君の名は。』『天気の子』にはなかったもの
ベタすぎること(だが絶対必要なこと)を徹底的にベタに述べておく。
民俗宗教や民間神道や国家神道を重大なモチーフとしているにもかかわらず、『すずめの戸締まり』が災害と荒廃に対する日本(人)の被害のみを中心的に扱っており、アジアの他者のことも、植民地主義/帝国主義的な問題も一切出てこないということには、やはり疑念が残らざるをえない(たとえば関東大震災のことにまで言及するのに当時起こった朝鮮人虐殺には全く触れられない)。
日本列島で暮らす人々の総体を「日本国民」だけで捉えることはできない。現在の「日本(人)」の多くが東日本大震災の経験を忘れているという忘却の問題の背後には、社会的あるいは歴史的に「そもそも記憶すらされていない」人々の諸問題が無数にあるはずなのだ。
その点では、『すずめの戸締まり』の想像力の形はじつは、『永遠の0』(2006年、太田出版)などによって「国民作家」とも呼ばれるベストセラー作家、百田尚樹の『日本国紀』(2018年、幻冬舎)とあまり変わらないのではないか。
『日本国紀』には少なくとも対外的な外国の感覚があり、それゆえに排外的な感覚もまたあって、そこから、日本(人)の古来伝統の(?)「和」の精神をもって災害ナショナリズムを形成しよう、という意識が出てくる。しかし『すずめの戸締まり』には、そもそも、対外的/排外的な感覚「すら」も感じられない(他方の『日本国紀』には、天皇の存在に対する関心はほぼ見られないのだが)。
震災によって母親を亡くし途方に暮れる四歳の時の自分に向けて、高校生に成長した鈴芽が最後に語りかける言葉は確かに印象的である。今はどんなに悲しくても、あなたはこの先ちゃんと大きくなる。未来なんて怖くない。あなた(たち)は光の中で大人になっていく。必ずそうなる、それはちゃんと決まっている――高校生になった鈴芽は常世の中で出会ったかつての幼い頃の自分にそのように伝える。
『すずめの戸締まり』は、こうして、かつての新海作品たちのように「すでに失われてしまったもの」へと感情を固着させて陰鬱なメランコリーの中に沈んで、その中でぎりぎりのロマン的な崇高な風景を輝かせる、というのではなく、「すでにあったもの、十分に満たされていたもの」を思い出し、過去に喪われた人々やその記憶に「正しく」別れを告げて、現在と未来を肯定するための物語である、と言える。大事なものはもう全部、ずっと前にもらっていたんだ、と。それが鈴芽の象徴的な母殺しの物語、「母性なしの女性」としての自立の物語としても読み解けることは、すでに述べた。
さて、最後に確認しよう。
『君の名は。』では、巨大災害による地方都市の被害そのものが「なかったこと」にされた。それは歴史修正主義的な欲望と紙一重のものだった(拙稿「『君の名は。』論――セカイとワカイの間に」、「すばる」2016年12月号)。
これに対し『天気の子』では、気候危機による東京の緩やかな水没と衰退を歴史修正することなく、そのまま受け止め、滅びていく世界の中を敢然と生きる若者たちの生を「大丈夫」と祝福した。しかしそれは、見ようによっては、大人たちの社会的な責任を放棄し、環境破壊や慢性的貧困の中を生き延びるという責任と負担を子どもたちに押し付けている、という欺瞞をはらんでいるようにも見えた(「映画『天気の子』を観て抱いた、根本的な違和感の正体」、「現代ビジネス」、2019年8月9日)
これらと比較するならば、『すずめの戸締まり』では、新海監督は、大震災のトラウマや地方の荒廃に苦しむ「日本」全体に向き合い、そのうえで肯定的な未来の「光」を提示するために、文化の力を使って大人としての「責任」を全力で果たそうとしている。そのように見える。そして「日本」全体に、たとえ大災害という現実の傷跡は消し去れず、愛する人は二度と甦ってこないとしても、それでも「日本人」は「大丈夫」である、という太陽のように眩しい「光」のメッセージ(お言葉)を伝えようとしている。そのように見える。
大震災による取り返しのつかない傷跡と現代社会の荒廃・貧困化を正面から受け止めて、「日本」の現在と未来を肯定するために、天皇(制)とジェンダーという困難な問題に深く身を沈めようとしたこと。民俗宗教と国家神道、巫女と女帝、アマテラスとアメノウズメ、などなどのきわめて危うい緊張関係をエンタメの中に政治神学的な情動として埋め込んでみせたこと。新海監督のこうした志には、やはり、率直に凄みを感じた。
危険を恐れず、今、これをやったのだ、ここに踏み込んだのだ、という驚きである。とはいえもちろん、その描かれ方や扱い方については、観客による多事争論があってしかるべきだろう。
(註1)
新海監督は、自分が映画の中で取り上げた様々な土地がアニメファンたちの「聖地巡礼」の対象になるだろうことを、心のどこかで、敗戦後に昭和天皇が「巡幸」によって日本再統合を目指したことに重ねてはいなかったか。昭和天皇の北海道への戦後巡幸が遅れて1954年になり、さらに沖縄についてはずっと遅れて1987年の国体で訪問予定だったが、結局体調不良で訪問中止になったということと、『すずめの戸締まり』が表象する「日本」の国土には北海道と沖縄が含まれていないことは、無関係とは言えないのだろう。
(註2)
『新海誠本』のインタビューの中で新海監督はこう語っている。「例えば、ある災害で自分にとって大切な誰かが亡くなったような経験があるとして、それを事実として受け入れて、自分の中に定着させるのは時間がかかりますよね。災害に限らずとも、大切な人を喪ったことを乗り越えて、受け入れていくにはある種の段階があるというのは、心理学でも言われていることですよね。僕自身にも、震災に関してはそういうステップがあったのだろうとは思います」