村上春樹的な「僕」は、他者の言葉をひたすら虚心に傾聴するケアリング・マスキュリニティ(ケアする男性性)の持ち主である。しかし「僕」は、若い頃の直子的少女との関係において主体形成に失敗し、意味も理由もわからない別離を経験し、それがトラウマとなり、その悲しみを言葉で語りえず、十分にセルフケアできず、女性全般に対するねじれた被害者意識とミソジニーを抱え込んだ空虚な中年男性になってしまう、というパターンを延々と反復してきた(拙稿「映画『ドライブ・マイ・カー』と小説『女のいない男たち』の意外な相違点〜村上春樹作品と「非モテ性」」参照)。『街とその不確かな壁』も、初恋の女の子を忘れられず、女性に対する恐怖を感じ、四十五歳まで家族を作れず、何もかもが虚しく淋しい、という中年(おじさん)の物語である。
⁂
それでは、村上作品の中で「街」はどのように変化してきたのか。簡単にその変遷をたどってみたい。
中編「街と、その不確かな壁」では、「街」とは、心を病んだ女の子の意識の深部、ロマン主義的な無意識の象徴だった。現実の影を切り捨てれば、暗い想いも消えて、平穏がやってくる。「街」はテーマパークというよりも、閉園間際の「遊園地」という郷愁を誘う比喩で語られていた。夢と死者の世界としての「街」。しかし「僕」は彼女と離別し、現実社会に戻って、成熟することを言わば強いられる。それによって生の意味や言葉を失い、「死臭」や「腐臭」の中で生活していかねばならない。
これに対し、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、「街」は「君」の心の中ではなく、「僕」の脳の中へと移植される。「ハードボイルド・ワンダーランド」パートの「私」は、もともと解離性同一性障害/多重人格のように人格を分裂させていたらしく、ゆえに人体実験を生き延びて、特殊な能力を得る。そのために、「組織」(システム)と「工場」(ファクトリー)の間のばかげた資本主義的陰謀に巻き込まれる。そのあげく、「私」の意識は「街」への完全移行を余儀なくされる。それは現実的には死を意味する。しかし意識は彼自身の思念の中で時間を分解した不死を生きることになる。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、「街」はロマン主義的なものというよりも脳科学的なギミックによって語られた。「街」は閉鎖系を構築したシステムであり、テーマパーク的な人工的完結性を持ち、ゆえにディストピア的な世界とされる。「僕」の「影」は、この「街」は弱いものたちの犠牲の上に成り立つ間違った世界だ、と批判する。これに対し、「僕」の最終決断は、元となった中編「街と、その不確かな壁」とは正反対である。「僕」は現実社会に帰還せずに「街」にとどまる、と決める。たとえ心(影)を失っても、そこが間違った世界であっても、心を失った女の子(君)とともにありたい、と欲望するのだ――とはいえ、それも含めてすべては「私」の脳内の出来事にすぎないのだが(他者との関係が描かれるのは『ノルウェイの森』においてであり、したがって『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『ノルウェイの森』もまた、マルチバース的に分岐し分裂した小説なのだと言える)。
これらに対して、今作『街とその不確かな壁』はどうか。ここでは、「街」は、「魂にとっての疫病」から人々を守るための自主隔離的な空間とされる。つまり「街」は、メンタルを病んでいたり、発達障害を持って生きづらさを抱えていたりする人々を、社会の圧力や脅威から守るものであり、リベラルな多様性や自己尊重(セルフラブ)を重視する現代社会におけるシェルター的な意味合いを持つ。また不十分な形とは言え、東日本大震災と原発公害事故、コロナ禍などの社会問題が意識されていただろう。「影」は、この「街」は「テーマパーク」的で「人工的」に感じられると批判するが、「私」にとっての「街」は、原始共産的な自給的コミュニティまたは有機的な細胞のような、どこか人々を包み込んでくれる温かさを持ったものに感じられている。
興味深いのは、今作の「街」では、心を病んだ人や発達障害のある人にも適切な仕事や生活が保障されている、ということだ。「街」では、つまり、健常者中心主義(エイブリズム)的な「社会的適応力」は必要ないのである。「街と、その不確かな壁」では夢読みの仕事は「君」の心を癒すためのカウンセリング的な仕事であり、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では人工的システムを維持するための工場労働的な側面があったとすれば、『街とその不確かな壁』ではそれはワークシェアリング的あるいは障害者雇用的な面があると言える。
村上春樹という作家にとって、これはかなり重要な置き換え、あるいは移植手術を意味したのではないか。それはすなわち、直子的な他者が「街」に閉じこもってこの世界から消滅すること――それは個人の実存的な死ですらなく、消滅のあとに痕跡も灰も残らないような消失であり、〝忘却の穴(ハンナ・アレント)〟、ブラックホール的虚無そのものである――を、ネガティヴな暴力性やトラウマの悲劇として捉えることから、他者が選び取ったポジティヴで能動的な行為として受け止め直し、祝福し直す、という置き換えを意味すると思われるからだ。
これは村上春樹的な「男」たちにとっては、次のような認識の転回につながる。心を病んで内閉した直子的女性の傍にとどまって、寄り添い、「ケアする男性」になるのではなく、また世俗社会に連れ戻そうとするのでもなく、ただたんに「さよなら」し、二度と会わないことを肯定するということ。生まれてきたこと自体を否定するような、タナトス的な消滅欲動を抱えた人々の生存を、肯定形で祝福し、見送るということ。そして直子的他者のそばで生きることは、自分の「天職」ではなく、別の誰かが担うべき仕事である、という事実を受け止めることである。そうした肯定形の別離と祝福によって、「男」たちは、中年以降の後半生の中で女性憎悪のダークサイドに堕ちることをかろうじて回避していくのだ。
『街とその不確かな壁』の中心的な主題は「継承」である。それは第三者に己の責任を「代理」させたり「身代わり」させたりすることではない。そうではなく、信頼できる次世代の誰かへと役割や仕事をきっちりと「継承」することである。「私」は子易さんから図書館長を継承した。そして夢読みの仕事を「イエロー・サブマリンの少年」(M**くんというサヴァン症候群の少年)に継承していく。この二つの継承が『街とその不確かな壁』という小説の骨格となった。