繰り返すが、宮﨑駿にとって、「この私はこう生きたし、これからもこう生きる」の「生きる」とは、母から「いつも何度でも」産んでもらう=産み直してもらうことである(註2)。そしてアニメーションとは、死んだ母親を虚構的に甦らせるための魔法的な技術である。この私が魔法的な技術で甦らせた母親によって産み直されたのがじつはこの私だった、という時間軸の不可思議なねじれ。黄泉がえりと産み直しの無限反復……。私が『君たちはどう生きるか』を最初に観た時の印象は、このようなものだった。では、それをこの私は、どのように受け止めればいいのか。
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『君たちはどう生きるか』を最初に観た時にとりわけ気になったことがある。評伝的事実によれば、宮﨑は四歳の頃、宇都宮で空襲を経験し、家族でダットサンに乗って逃げる時に、「乗せてください」と助けを求める女の人に遭遇したが、その人を見捨ててしまったことがあったという。その女性は女の子を抱いていた(大泉実成『宮崎駿の原点――母と子の物語』参照)。
これはよく知られたエピソードである。
宮﨑はその記憶は自分の中でも曖昧であると語っているし、長兄はそれを駿の記憶違いではないかと証言してもいる。しかしいずれにせよ、宮﨑駿にとって戦火の中のその出来事は決定的なトラウマとなり、その後の創崎作活動の原点となったのだった。戦争のような極限状況の中で見知らぬ誰かを助けられるか。それは強い社会的な倫理性を含んだ問いであるだろう(拙著『宮崎駿論』参照)。
しかし『君たちはどう生きるか』は、そうした社会性を含んだ原点の問いを、自分は母親を助けられなかった、というドメスティックなエピソードへと大胆に書き換えている。自分の創作の原点を強引に大きくねじ曲げてでも(宮﨑自身の年齢と眞人の年齢をズラしてでも)、戦争の日々によって自分は母を失ったのだ、というふうに改変したのである。そして母親を戦火の中に見殺しにしてしまった、という悔恨の痛みを妄想領域に達するほどに研ぎ澄ませた。それを新たな原点としてつかみ直した。そこでは助けられなかったという罪の悔恨が、死んだ母を無限に求め続けるという享楽(倫理的欲動)とも深く結びついていく。
宮﨑駿はこうした一連の変形の操作によって、『君たちはどう生きるか』という作品から政治性や社会性を一層切り捨ててしまったように見える(『風立ちぬ』どころか『ハウルの動く城』に比べてさえも)。しかし、宮﨑駿はそうした極私的な欲動を貫くことで、かえって、特異的な意味での世界的な政治性に手を触れているようにも感じられる。
ある意味では『君たちはどう生きるか』は、高畑勲の『火垂るの墓』に対する一つの応答でもあるのではないか。有名な話であるが、高畑監督は『火垂るの墓』について「じつは私は反戦のメッセージを伝えようということでこの映画を作ったわけではないのです」と言っていた(「映画を作りながら考えたこと」、『映画を作りながら考えたこと』所収)。清太は堪え性がなく妹を死なせてしまい愚かだった、いやあれが戦災孤児のリアルだ、というようなリアリズムの話とは少し違う。
『火垂るの墓』で兄妹を襲う運命は確かに過酷だが、防空壕での二人きりの暮らしは、美しく楽しい遊びのようなものだったのであり、かけがえのない幸福があった。原作者である野坂昭如との対談(「清太と節子の見た〝八月十五日〟の空と海はこの上なくきれいだった」、同書所収)では、野坂の「あれは心中物だから……」という言葉に、「そうですね。それは最初に読んだときに非常に強く意識しました。近松の心中物とか、そういうものを感じまして」と応じている(ちなみに高畑自身が九歳の時に岡山で空襲にあい、姉と二人で逃げ、蒸し焼きの死体を目撃して生涯にわたる衝撃を受けてもいる)。
それだけではない。高畑自身のそうした自作解説を超えて、『火垂るの墓』という作品は、だからこそイデオロギー的な意味での「反戦」以上の切迫した〈反戦〉的な政治的欲望によって我々の胸をえぐるのではないか。そのように考えられる。それは芸術的な美か社会的リアリズムか、欲望か政治か、などの粗雑な二元論をつねに超えてしまう。同様のことは少年と妹ではなく母と息子を主人公にした『君たちはどう生きるか』についても当てはまるように思われる。
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興味深いことに、宮﨑駿から大きく影響を受けてきたアニメーション監督たちの近年の作品にも、母的なものの主題が大きく浮上してきていた。それは戦後日本の「成熟と喪失」(江藤淳)の問題系に関わるが、もはやそれだけでもないようにも感じられる。
たとえば『君たちはどう生きるか』の実母/義母の分身的な関係は、新海誠監督の『すずめの戸締まり』(2022年)の東日本大震災で亡くなった実母/代理母である叔母(環)の関係と重なるように思える(註3)。どちらの作品でも叔母たちは、それぞれに一瞬、歪んだ表情を見せて姉の息子/娘を激しく拒絶する。ただし、両者の姿勢は対極的でもある。眞人が母親から何度でも産んでもらうことを欲望するのに対し、すずめは死んだ母親の呪縛を解き、象徴的な母殺しを完遂し、自分で自分を救済しうるような自立的な女性になるのだ。
あるいは細田守監督の『竜とそばかすの姫』(2021年)では、主人公のすずは、かつて他者を助けるための自己犠牲によって亡くなった母親の倫理性に強く呪縛されている。娘であるすず自身もなかばまでは母性的な存在になって、他者を助けるために自己犠牲的な力を発揮していく。しかしすずはそれと同時に、周りの仲間や共同体の助けを借りることによって、母性的なものの力をいわば「ソーシャル化」(=非母性的な母化)し、自己犠牲性の危うさを分散して、自らも生き延びていくのである。
さらにまた、庵野秀明監督の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021年)では、シングルマザーである葛城ミサトが「社会変革的な母」のような存在になる。ミサトは母性主義的な母親でもなく、ネオリベラリズム的(ポストフェミニズム的)な職業軍人的女性にもとどまらない。仕事仲間を信頼し、人類の知恵と意志を信じ、子どもたちのことを未来を担う「個」として愛そうとする。そして未来世代が存続しうるための、持続可能な環境を作り出そうとするのである(拙著『ジャパニメーションの成熟と喪失 宮崎駿とその子どもたち』参照)。
(註1)
クィア理論の極端な立場では、出産や未来世代に特別な価値を認める再生産未来主義が否定され、欲望のアンチソーシャルな否定性の要素が重視される。
(註2)
ただし、『君たちはどう生きるか』の母的なものの存在は複数的な母へと分裂している。死んだ実母のヒサコ。その妹で義母のナツコ(代理的で分身的な母)。少女の頃のヒサコであるヒミ(少女的な母)。のみならず、『天空の城ラピュタ』のドーラのモデルは宮﨑駿の実際の母親であるという有名な話に従うならば、アオサギの中にすら母的なものの影が混在しているのかもしれない。つまりアオサギは『天空の城ラピュタ』のドーラや『千と千尋の神隠し』の湯婆婆的な「恐るべき導き手」であり、「怪物的な老婆たち」の系譜にも重なるのではないか(豪胆で武骨だが親切なキリコの存在はどうだろう?)。実母のヒサコ、義母のナツコ、少女のヒミという三人の「美しい母=少女」たちの裏面には、アオサギのいびつな醜さが象徴するような「怪物的な母」もまた存在するはずである。
(註3)
日本神話の扱いといい、『君たちはどう生きるか』はどこか新海誠からの逆影響を感じさせる。極端に言えば、新海誠が宮﨑アニメを二次創作したクローン的な作品が『星を追う子ども』(2011年)であるとすれば、その『星を追う子ども』を宮﨑自身がさらにリメイクしたものが『君たちはどう生きるか』である、というような「仮説」を立てることも不可能ではないかもしれない。