こうした母的なものの描き方と対処の仕方の違いはそれぞれに興味深い。これらの同時多発的な母問題を、男性創作者たちは年をとると結局、PC(ポリティカル・コレクトネス)的な多様性に耐えられずマザコンに行き着くのだ、というような雑な話に落とし込んでしまうべきではない。あるいは、作家の欲望論的な問題を、ネット用語でいう「性癖」や「原液」などの次元に解消したり、わかりやすい心理学・神話学的な解釈枠によって一般化してしまうべきでもない。
私たちはあらためて、母問題にかんする批評言語を磨き上げていかねばならないだろう。実際に近年は、主に母娘関係をめぐって、母性的なもの/母的なものの区別、有害な母性性(いわゆる「毒親」など)、母と娘のシスターフッドの再構築など、様々な批評的視点の蓄積がある。
ある種の精神分析理論には、欲望(享楽)を諦めないことが倫理である、という有名な言葉がある。特異的な欲望を抑圧して現実に軟着陸=昇華させるのではなく、それをどこまでも持続的に徹底化していくこと、そこに欲望論的な倫理があるのではないか、と。
もちろんそれは、現代のPCへの配慮をやめて、タテマエ的な正しさ(=漢意〈からごころ〉?)を全否定し、偽りのない本音(=真心?)を語るべきだ、というようなことではない(「性癖」や「原液」というネット用語には国学的ないわば「真心の共同性」に連なるような危うさがある)。欲望を諦めずに倫理に至ることがどれだけ恐ろしいことなのか。それがどんなに勇気を要することであるか。そのことを批評的に考え続けていくべきだろう。
己の欲望の特異性を決して諦めないということは、ある側面では反社会的なことであるだろう。あるいは、世界それ自体を滅ぼしてもいい、というような(反社会性を超えた)反世界的な破壊性すらも胚胎しうる。しかし、そうした反社会的/反世界的な欲望の先で、この自分だけに表現可能な倫理的享楽を創造し、それこそを一つの作品として産み直していくということ。そうした試みは、それ自体が極めて政治的な(イデオロギー的な、ではなく)実験でありうるのではないだろうか。私はそう感じる。そして、『君たちはどう生きるか』が愚行的に見せてくれた欲望論的な政治性を受け止められるだけの批評言語が今、自分たちの手許にはあるだろうか。そう問い直さねばならない。以上が、この私にとっての『君たちはどう生きるか』論の初発の一歩である。
(註1)
クィア理論の極端な立場では、出産や未来世代に特別な価値を認める再生産未来主義が否定され、欲望のアンチソーシャルな否定性の要素が重視される。
(註2)
ただし、『君たちはどう生きるか』の母的なものの存在は複数的な母へと分裂している。死んだ実母のヒサコ。その妹で義母のナツコ(代理的で分身的な母)。少女の頃のヒサコであるヒミ(少女的な母)。のみならず、『天空の城ラピュタ』のドーラのモデルは宮﨑駿の実際の母親であるという有名な話に従うならば、アオサギの中にすら母的なものの影が混在しているのかもしれない。つまりアオサギは『天空の城ラピュタ』のドーラや『千と千尋の神隠し』の湯婆婆的な「恐るべき導き手」であり、「怪物的な老婆たち」の系譜にも重なるのではないか(豪胆で武骨だが親切なキリコの存在はどうだろう?)。実母のヒサコ、義母のナツコ、少女のヒミという三人の「美しい母=少女」たちの裏面には、アオサギのいびつな醜さが象徴するような「怪物的な母」もまた存在するはずである。
(註3)
日本神話の扱いといい、『君たちはどう生きるか』はどこか新海誠からの逆影響を感じさせる。極端に言えば、新海誠が宮﨑アニメを二次創作したクローン的な作品が『星を追う子ども』(2011年)であるとすれば、その『星を追う子ども』を宮﨑自身がさらにリメイクしたものが『君たちはどう生きるか』である、というような「仮説」を立てることも不可能ではないかもしれない。