作家の問いは、問いとして熱を発する前に、精巧に作られた構成や企み、古今の名作からの膨大な引用、虚実を織り交ぜた重層的な語りのスタイルの中に埋め込まれ、死と再生、信仰、魂の救済といった大きな主題に吸収されていく。
それこそが小説の完成度であり、文学的な成熟ともいえよう。だが、私には完成や成熟ではなく、どうしても別のものが見えてしまうことがある。それはかつて私自身の生と共鳴した荒々しい問いと情動、そして未完であるがゆえに抒情と美しさをたたえていた作家の言葉が遠ざかっていく、そんな光景であったのかもしれない。
大江の難解さとは何だったのか。彼は80歳を超えてもなお、自分自身を疑う作業を強い、家族をはじめ様々な登場人物からの糾弾や励ましを受け、過去を問い直し、繰り返し自分の住む都会と故郷・「谷間の村」を往復する物語を書きつづけた。
そこに現れた難解さとは、戦後から現在に至る時代変化の大きさと深さ、複雑さそのものの写し絵であり、長年にわたる作家の表現との闘い、軌跡にほかならない。
その持続力と誠実さは胸に迫るものがある。同時に私は、胸苦しさとともに、あるかなしみのようなものを覚える。大江論を書きながら時折考えたことは、大江には別の道がなかったのかということだった。もし昭和に終わりが来なければ、時代に忠実であろうとしなければ、あれほどまでに苦しい作業を生涯自分に課し、何度も故郷を往復する必要もなかったのではないか。もっと別の物語が書けたのではなかったか。
しかし、その問いほど不遜な問いはないだろう。それは、自らの生の不安と迷いへの励ましと批評を作家に求めつづけた一読者である私の未熟さと身勝手さにすぎない。
(註1)
『大江健三郎 作家自身を語る』、大江健三郎(聞き手・構成 尾崎真理子)、新潮文庫、P339
(註2)
『大江健三郎 作家自身を語る』、大江健三郎(聞き手・構成 尾崎真理子)、新潮文庫、P224
(註3)
『大江健三郎 作家自身を語る』、大江健三郎(聞き手・構成 尾崎真理子)、新潮文庫、P254
(註4)
「文学の不易流行」『新潮』88年5月号