周回遅れの読者
この7月に『「新しい時代」の文学論』(NHKブックス)という本を上梓した。明治の近代化、アジア太平洋戦争、そして東日本大震災の3つの時期を新しい生き方が求められた時代の裂け目ととらえ、それらを夏目漱石、大江健三郎、3.11後の現代文学から論じてみた内容だ。
手に取っていただければわかるが、ページの大部を大江論に割いている。1957年にデビューして以来、今年の3月に亡くなるまで、実に60年以上にわたって小説を書き継いできた日本で2人目のノーベル賞受賞作家である。大江健三郎を読むということは、昭和から平成、令和に至る戦後日本のひとつの自画像に触れることだという思いがあった。
しかし、私が大江健三郎を読みはじめたそもそもの動機は戦後日本への関心などではなかった。なぜ大江だったのか? 端的に言えば、大江作品ほど面白い小説は他にはないからであり、20代に出会って以来、大江健三郎は私自身を励まし批評してくれる大切な作家であったからだ。
私が吸い寄せられるように小説を手に取ったのは、生きていくことへの不安、社会や他者と自分を結ぶ回路が見つからないといった所在のなさに促されてのことだった。文学の中に何かしらの手がかりがあるのか、そもそも文学にそんなことを求めることが正しいのかどうかもわからなかった。
90年代に大学生活をしていた私の周囲では、村上春樹や中上健次などが代表的な同時代の作家だった。大学ではじめて文学に触れた私は薦められるままに春樹や中上を読んでいたが、ある種の落ち着かなさを感じていた。そんな時に出会ったのが大江作品だった。
その頃の大江はすでにキャリアとしては後期にさしかかっていたが、周回遅れの読者であった私は、初期の頃の作品を貪るようにして読み、そして幾度も心身が揺さぶられるような体験をした。中でも『芽むしり仔撃ち』は最も好きな小説のひとつだ。
疫病がひろがる村に遺棄された感化院の子供たちが病気を恐れながらしだいに子供たちだけの共同体「自由の王国」を作る。だが、大人たちの巧知と暴力によって鎮圧され瓦解する。ただ一人、弟を喪(うしな)った主人公の少年だけがむなしく抵抗し、暗く深い森に逃げ込むところで物語は終わる。
物語の構成もさることながら、それまでに一度も読んだことがないような文体、豊饒なイメージに彩られた言葉がページから溢れ出ていた。疫病、暴力、集団心理、差別など現代に通ずるテーマをそこに見出すことは容易であり、それは大江作品が今なおアクチュアルに読める理由だが、私をとらえたのはそんな解釈可能なものではなく、このような小説を生み出した情動の塊(かたまり)、作家が持つ問いの熱い手触りだった。30年以上も前に書かれた大江作品の少年の息遣いの中に、私は自分の生のリアルがあると感じたのだった。
ページを繰る指の先に自分が求めているものがあるという期待。不安と迷いの中にあった自分の生と文学をはじめて結びつけてくれたのが大江健三郎だった。その読書体験はやがて私個人の生のあり方だけではなく、作家が生き継いだ社会と時代、戦後日本の総体としての生のあり方まで繋がっていった。
1987年の転換点
大江健三郎の名を知らない人はいないだろう。しかし、彼の小説を実際に読んだことのある人は少ないのではないだろうか。同じくノーベル賞受賞作家・川端康成の『伊豆の踊子』や『雪国』とは比較にもならないだろう。
例えば大江ファンに好きな小説について聞くと、たいていは初期の作品を挙げる。その原因は、後期に書かれた作品の多くが難しく読みにくいと読者が感じているからだろう。大江本人もある時期から読者が減ってしまったことの嘆きを述べている。(註1)
作家の力が陰り、人気が落ちたという単純なことではない。むしろその逆だ。大江はおそらくどの作家よりも誠実に時代と社会そして小説に向き合い、作家として大成した。しかし、おそらくはそれゆえに作品は読者が近づきがたいほど複雑、難解な印象を生んでしまったのだ。
大江作品はなぜある時から難解と言われるようになってしまったのか。私自身、後期の大江作品のいい読者ではないかもしれない。また、難解で何が悪いのかとも思う。しかし、大江の変化の中には戦後日本が体験した大きな曲がり角と、大江自身の変容が重なっているのではないか。拙著では、昭和の終わりの87年に書かれた『懐かしい年への手紙』という作品がその変換点だったのではないかと論じた。
『死者の奢り』『飼育』で鮮烈に世に出て以来、時代を表象する作品を次々と生み出し、『個人的な体験』『万延元年のフットボール』『洪水はわが魂に及び』などで作家としてピークを迎えた大江が満を持して発表したこの作品は「精神的自伝」と本人が述べている通り(註2)彼の代表作のひとつである。これ以降、晩年に至るまで大江作品の骨格をなすことになる故郷四国の「谷間の村」を舞台にした壮大な物語群が書き継がれていく。
後年大江はその時期、つまり80年代後半について、「はっきり行き詰っている、社会の大きい転換のなかで手も足も出ない」と振り返っている(註3)。大江は何に行き詰まっていたのだろうか。
2つの時代と2つの変化
作家として独り立ちする20~30代後半の期間、すなわち1950年代後半から70年前後は、戦争で傷を負った新生日本のいわば青春期であった。占領の終結、朝鮮戦争、経済成長、再軍備化、戦後民主主義とアメリカ、安保闘争、ベトナム戦争、先鋭化する学生運動、カウンターカルチャー……日本も世界も戦後の秩序や体制の形成期であり、あらゆる分野で次から次へと新しいものが生まれてくるまさに胎動期だった。新と旧、閉塞感と自由、危機と希望が入り乱れる混乱、緊張、高揚感の渦巻きの中で多くの若い作家たちが次々と生まれた。そのトップランナーであった大江は、積極的に政治や社会の動きに関わりながら、過激さやタブーをものともせず、次世代への期待を一身に浴び、時代精神の代弁者となって新しい表現を切り開いていった。
(註1)
『大江健三郎 作家自身を語る』、大江健三郎(聞き手・構成 尾崎真理子)、新潮文庫、P339
(註2)
『大江健三郎 作家自身を語る』、大江健三郎(聞き手・構成 尾崎真理子)、新潮文庫、P224
(註3)
『大江健三郎 作家自身を語る』、大江健三郎(聞き手・構成 尾崎真理子)、新潮文庫、P254
(註4)
「文学の不易流行」『新潮』88年5月号