西村 そうですね。いま彼の笑いに対して、ポリティカル・コレクトネスの現代において時代遅れだとか、価値観のアップデートに失敗したと言う批判もありますが、松本さんがテレビでお笑いができないと判断したのはおそらく90年代ですよ。『ごっつええ感じ』というテレビ番組の頃から、ずっと批判はあったわけで最終的に番組も打ち切りになっている。彼のなかでもうテレビでお笑いができないという認識はずっと前からあったんだと思います。
上田 それを突破しようとして映画を監督するわけだけど、うーん……。
西村 言葉が出ない(笑)。
上田 松本人志氏の映画作品についていえば、『大日本人』と『しんぼる』まではコントの延長上で、何か映画的なものが結晶化しないか松本氏が試みていたように映っていました。僕はそこに気概を感じていたんですね。一方で、よく比較対象に上がっていた北野武氏の作品の場合、自分の表現しているお笑いと共通の基盤を持ちながら、北野映画独自のペーソスを作中で構築しています。もしかしたら、松本氏が初期の路線を堅守していれば、もっと僕が好きなタイプの映画を観られたかもしれないなといまでも思います。これは、初期の視聴者の受け止め方の問題もあるかもしれません。
あと付け加えるならば、松本氏は、いまから映像作家としてのキャリアを再構築するのも全く遅くないと思います。僕は若い頃に作家を目指す際の修業の一環として、『フランス文学案内』(朝日出版社)をぱらぱらとめくっていた時期があるんです。この本は、フランスの文学者を図鑑みたいに詳述するつくりなんですけど、その一人目が、たしか詩人で、彼は泥棒であり、人を殺したことがきっかけとなって詩作に入ったみたいなことが書かれてあったんですけど、こと新たに創作を始めるのに遅いも早いもないんだなってその時感じました。テレビの場合はスポンサーのことは無視できないかもしれませんが、今の時代はそれこそYouTubeなどもありますしね。
西村 彼は良くも悪くも〝言葉の人〟なんだなと思います。映画となると、どうしても空間の見せ方とか、俳優の身体性で表現できるものとか、すごくマテリアルに生々しいところに表現の勘所を持たせるようでないといけないところがある。でも、松本さんはそういうタイプの表現者ではないのではないでしょうか。ただ、彼の映画の商業的な失敗というのは、ああ、やっぱり松本人志は本質的にはお笑い芸人なんだと、確証を得た気分にもなりますが(笑)。
漫才コンビ「令和ロマン」の試みがヒントになる?
西村 「M-1グランプリ」で「令和ロマン」という吉本興業所属の若い漫才コンビが優勝しましたよね。髙比良くるまさんと、松井ケムリさんのコンビですが、ボケ担当のくるまさんが、自分たちのネタ動画をYouTubeで公開して、ファンに分析を呼びかけるんですよ。ご自分でもネタの分析をされていますが、ファンに分析者という役を割り振ってもいる。その試みはいわば、「センス」と呼ばれる曖昧な領域を言語化し解体する作業へとファンを導いていくわけです。もちろん分析者が演者になれるわけではないですが、お笑いという特殊技法の在り方を、民主的に知らしめていく方向性に見えます。これは、吉本の養成所であるNSCが、師弟制度によらないお笑い教育を始めたことの影響があると思います。それがお笑いという特殊技法の民主化の第一歩だったと考えれば、「令和ロマン」の試みは、ある意味、吉本が始めたお笑いを正統に受け継ぐ振る舞いに思えます。
そんな「令和ロマン」の大先輩であるNSCの第1期生であった松本人志という芸人は、単に人々を笑わせるだけでなく、お笑いにはセオリーや文法が存在するという事実を、知らしめたことに多大なインパクトがあったのではないでしょうか。
上田 それで言うと、松本人志氏は、ある時期以降、テレビでゲームマスターのように振る舞いましたよね。そことも関わってますよね。お笑いを民主化させることともつながる。
西村 ええ、自分がプレイヤーになるというより、仕掛け人のような立場でテレビにも出ていました。
上田 あれはどんな人でも楽しめる、お笑いのプラットフォームを作ることを意識していたんでしょうね。ただ、松本人志氏の場合は、そのプラットフォームが、テレビという日本的な地盤に乗っかり続けていて、出口を失いつつあるなとは感じていました。アマゾンプライムで番組をやっていましたが、あれもテレビ的なフォーマットをそのまま持ってきた、という構えでした。
西村 そうですね。ただ松本さんがいなくなっても、お笑いにおいて、ファンの方を巻き込みながらネタを作ったりするという流れは定着する気がします。いまの若い芸人さんたちは、テレビ以外での表現をうまく模索していると思いますよ。
上田 プラットフォームは、そのジャンルを理解する助けになることも多いですからね。僕も「純文学って、どういうものを書いているんですか?」と聞かれたときなんかに、「村上春樹の二番煎じ的な芸風でやらせてもらってます」と答えるようにしています。「村上春樹」はある種のプラットフォーム、というかフレームワークとして通用するんで、助かりますよね。
西村 上田さんの「旅のない」という短編作品で、主人公の「小説家」がそう答えるシーンがありましたね。
上田 「純文学」がわからなくても、「村上春樹」のことは知っている人はいて、そう答えると作品のイメージがつかみやすくなる。文学とかを知らない人でも楽しめるように〝場〟を共有してもらう。なので、小説とお笑いは違うけど、「令和ロマン」の髙比良くるまさんという〝人材〟の試みはよくわかりますね。
西村 そのジャンルに参加させるためのプラットフォームを作ること。ファンの人や、少しでも関心を持つ人に「見立て」や「審美眼」を持ってもらうよう主導すること。いまは、書き手や作り手側がこの両方をやらなければいけない時代なのかもしれませんね。