これからは〝遅いこと〟が価値になる?
上田 最近出版した『多頭獣の話』でYouTuberのことを書いたんです。書いていて思ったのが、とにかくYouTuberというのは、注目を集め続けることでしか存在し得ない。動画の再生回数やフォロワー数でしか評価されないんじゃないかと思った。たとえば、彼ら彼女らが社会問題にコミットしたくてガザの問題について掘り下げたいと思って動画を上げる。でも、フォロワーの数が多ければ最初のほうは動画を見てもらうことができるかもしれないけど、なかなか持続しないんじゃないか。内容のある作り手の深いメッセージとかを伝えるのは難しいメディアなんじゃないかと思うんです。
岩尾 そうすると、ただ注目を浴び続けるためだけに動画を上げることにしかならないですね。
上田 そうなんです。表層的な興味を集め続けないといけなくなる。本来は多くの人に注目してもらって、何をやるか中身が問われるはずなんです。でも、いまはとにかく興味を惹いて見てもらうことだけに必死になって中身は空虚。これはYouTuberだけの話でなく、社会の色んなところで起こっている現象のように思うんです。
岩尾 おっしゃる通りだと思います。『世界は経営でできている』でも書いたのは、手段が目的を追いやっていないかということです。注目を浴びるのは手段だったのに、目的になってしまった。「何のためにやっているんですか?」という問いは相手をバカにしているように聞こえてしまうところがある。「これだけ多くの人が見てるんだからなんか文句ある?」みたいに返されて終わりというか。
上田 出版業界でも似たようなことが起こっています。本という形態は自分が考えている思想や物語をより深く伝えるために存在するはずですね。そういう思想なり物語が読者に徐々に広がってゆく本が〝いい本〟だった。いまはそれが中身はともかく、多く広がる本=売れる本が〝いい本〟になってしまっている。本を多く広げることが目的になってしまっているように感じます。
岩尾 目的と手段が逆転してしまっている。
上田 僕は純文学を書く小説家なので、そこは売れるかどうかより、やっぱり内容で勝負すると言い続けないといけないと思ってますけどね。
岩尾 1978年にノーベル経済学賞を受賞したハーバート・A・サイモンという人がいるんです。彼が60年代後半に、こういう予言をしているんです。かつては世の中において〝情報〟が希少価値だったと。それで、本や新聞、ラジオやテレビにみなが群がる。でも、その情報が多岐にわたると、どの情報に注目するかが大事で、これからは〝注目〟が希少価値になるだろうと。それは50年以上前なんだけど、現代がまさに彼の予言通りの社会です。
上田 電車やタクシー、いまはエレベーターや公衆トイレの鏡にまで広告がありますね。
岩尾 また、企業もうまい動画を作るんですよ。耳に残る歌とかダンス、または不安を煽るようなキャッチコピーをつけたり。「これは何だ?」って思わず僕も電車で〝注目〟しちゃう(笑)。
上田 誰がどう見てもこの状況は変ですよ。世の中こんなに〝注目〟だらけだから、「あなたの言っていることは、注目を惹くだけに注力して中身がなくて空虚だぞ」と指摘することは簡単だと思うんです。でも、いま難しいのは空虚であればあるほど影響力を持ってしまうことです。
岩尾 空虚というのは、その人に言いたいことがないということですよね。世の中の求めている雰囲気や流れをうまく読んで、いわばアンプに徹して〝注目〟を浴びればいいだけなんですよね。
上田 ある種、〝注目の奴隷〟になっている。僕が『多頭獣の話』で書きたかったのもそのことで、〝注目〟というものにモチベーションを失った人気者が途端に重力に引かれて地上に堕ちてしまうようなイメージがあったんです。
岩尾 空虚なことを言っても金が稼げることが問題なんですよね。
上田 注目の奴隷となっている人を支持する人がたくさんいるからですね。だから、僕はやっぱり〝注目〟が価値だという世界はまだ続くんじゃないかとも思うんです。
岩尾 ただ、みんなすぐ忘れて、そのスピードが速い気がする。少し前まで『バチェラー』というネット番組が人気だったけど、番組終わったら誰が「バチェラー」だったとか忘れていませんか。
上田 ああ、たしかに覚えてない。
岩尾 だから、ずっと同じ人が注目を浴び続けるというのは難しいんじゃないかな。特にネットで有名になった人はパーッといなくなってしまう印象がある。長くテレビに出ていた人は、情報というのが価値だった時代の人だから、内実のある人気者になれるんでしょうけどね。
上田 この状態も由々しきことなんだけど、文化の段階で踏みとどまっているのだとすればまだマシかもとも思う。というのも、僕が危惧しているのはこの空虚な〝注目経済〟が将来的に大きくなって、たとえば、生命工学の発展で寿命が延びる技術ができましたとなった場合です。お金さえあれば、逆に言うとお金がある人だけが、自分の寿命を延ばしたり、人生を設計できるようになる。そうすると、生きる目的とか、人生自体の中身はどうでもよくて、表面的な長い時間をお金で獲得することが価値となり目的になってしまうような社会がくるかもと。これは極端な想像だけど、そんな世界の先にある未来のビジョンに不安を覚えてしまう。そういう未来の中で小説に何ができるんだろうとかも考えるんです。