インフルエンスの数が正義?
上田 去年、『多頭獣の話』(講談社)という小説を出版したんですけど、主人公がYouTuberなんです。それを書いていて思ったのが、いまはとにかく影響力がないと意味がない社会なんですよね。だから、いくら知的な言論活動を展開しても、その人に影響力がなければ誰もその意見に耳を傾けないという問題があるんじゃないかと思っています。
與那覇 「あの人はいまやインフルエンサーだ」というのが、最大の褒め言葉になってますよね。
上田 ええ、だからどれだけインフルエンスできたかが、正義なんですよ。もはや、中身もどうでもいいと。
與那覇 実は悪い影響を広めていても、「でもインフルエンサーじゃん?」みたいな(笑)。その起源を辿ると、2000年代から上田さんの指摘のとおり、「インターネットで世の中が変わる」というムードをメディアが醸し始めました。
上田 「Web2.0」と言われて、CGMと言われるコンテンツが出てきた。CGMはConsumer Generated Mediaなので、要は一般ユーザーの発言自体がコンテンツになる。
與那覇 あの頃からなんでもかんでも、その「コンテンツ」の概念に括り出したじゃないですか。当時は芸術作品を「コンテンツ」と呼んでいいのか? という議論もあったけど、いまや発言者の内実を問わず「インフルエンサー」と呼んでいます。
上田 芸術作品を「コンテンツ」と呼ぶのは避けるべきだろうなと、いま改めて思いますね。「コンテンツ」と括ってしまうと、観客数や部数はどれぐらいかの数しか注目されなくなる。中身の価値が問われなくなりますよ。
與那覇 実際に、中身じゃなく再生回数だ! という価値観になってしまった。
上田 別に再生回数が1回でも、その人にとって重要であれば意味はあるんですよ。
與那覇 でもそうした一回性や個別性の価値に、社会が承認を与えなくなってしまった。
上田 そうですね。
與那覇 たとえば「推し文化」が普及したのは、AKB48がブームになった2010年代の頭でした。その頃は彼女たちの握手会に行ったファンが、世間的に人気がある子ではなくても、でも会ったらすごい感じよく対応してくれたから、「俺はこの子を推す」といったノリもあったようです。行ってないから知らないけど(笑)。
「推し」という言葉にせよ、最初はそうした個別性と結びついていた。でも、いまはむしろ「みんなが推すから私も推す」になってませんか。
上田 そういう一回性や個別性すら資本の原理が回収してしまう。ただ、消費者側の気持ちもわかる気がする。これだけ色んな情報や娯楽にあふれる時代だから疲れてしまうんでしょうね。そうするとみんなに支持される人気なものを推したり楽しんだりするほうが楽なんだと思う。
與那覇 より日常生活に近いところでは、外食がそうですね。ミシュランなり食べログなりの「評価が高いお店」で食べることには、特別感がある。でも、本来ならもともと「私にとって特別」なお店をみんなが持っていた。受験勉強で通ったとか、初めてのデートで使ったとか、店主と顔なじみになれたとか。
一回性や個別性が消えると、そうした本人なりの価値がなくなり、みんながレビュー評価に釣られて動くことになってしまう。または「インフルエンサーと同じ店で食べたい」とか(笑)。それでどんどん、ムダな行列ばかりが伸びてゆきます。
上田さんも、初期には人類史の全体を抽象化して見渡す中編を書かれましたが、近年は『旅のない』(講談社文庫)や『関係のないこと』など、ミクロな対人関係の「思い出」を回想する文体の短編集を出されてますね。そうした変化に、一回性や個別性が消えてゆく社会への危機感を感じました。
上田 そうですね。限りある1回しかない人生の中で、個々人の絶対に譲れないものや、時間が経過しても消えないその人にしかわからない傷であるとか、そういうものが反映されている作品がいま大事だと思う。ここ最近、文学の世界だと当事者性の文学というのがトレンドになっているんです。そこで言われる「当事者」はマイノリティの視点を指していると思うんだけど、本当は誰もが人生の当事者であるので、自分の個別性にこだわって作品を書くことに意味があるよなと思っています。