なぜ、みんなAIが好きなのか?
與那覇 僕の新刊『江藤淳と加藤典洋』で、加藤典洋のテクスト論批判に触れています。テクスト論とは、「作者が何を意図して書いたか」は気にせず、その文章(テクスト)が「どう読めるか」だけを考える読み方で、日本では1980年代のポストモダン・ブームで主流になりました。でも加藤さんは、そうした読解が「作者がどんな人かなんてどうでもいい」という姿勢につながる点を、強く批判した。
これがいま、ぐっと現実的な話になっていると思います。小説家にも「生成AIに下書きしてもらってます」と公言する人がいる時代には、読者が「この作品の続きを、原作者に代わって書いて」とAIにリクエストすることもできてしまう。
上田 小説家としては、発表したすべての作品がつながっていたり、作品を出す順番とかにも気を配ったりしているんですけどね。
與那覇 そうですよね。だから本来なら上田さんの小説が面白かったら、姉妹作をたどりつつ「どんな人が、どういうビジョンで書いたのか?」を知ろうとして、上田さんの発言や、上田作品を扱う文芸評論を集めたりしました。
仮にそうした読み方を「深い読書」と呼ぶとすると、もう深さなんていらないんだと。読んでる間だけ気持ちよくなれればよく、しかもその気持ちよさのゆえんは「インフルエンサーが推した本だから」みたいな。そうした浅い読み方ばかり煽られてはいませんか。
上田 実際にそうなっていると思います。いまはコスパ・タイパの時代なので、そこまで深く楽しむ余裕がないですから。
與那覇 日本人って平成の終わりからずっと、「AIが人間を追い越す」という話がやたら好きじゃないですか。そうした態度が実際に、世の中に根を張り出しています。
上田 これは日本だけなんですかね?
與那覇 最初は「第3次AIブーム」と呼ばれて、世界共通でしたが、海外では下火になっても日本人だけが固執するんですよ(笑)。それは「売り物」としてのテクストは消費しても、書いた作者の人生には興味が湧かない感覚にも通じます。
上田 日本人は昔から同調圧力が強い民族なので、お上の言うことには従う、お偉いさんに全部任せておけばよいという考えがねじれて、いまは政治家が信用できないからAIのほうがマシなのではという心性になりつつあるようにも見える。
與那覇 政治家ほかのエラソーなやつらを「AIに抜かれる」と、バカにしたい気持ちはあるんでしょう。ただ僕はもっと根本的に、人間どうしでのつきあい自体が嫌になっているのかなと。
上田 ああ、単純に人間不信になった。
與那覇 ええ。他の人の気持ちを推し量り、配慮しながら相手とつきあうことを、「コスト」としか感じない日本人が増えたと思うんです。背景には、でも「俺の内面」は誰も気にしてくれないじゃないかと、そうした絶望感がある。
上田 気にしてくれないから、こちらも気にしないように生きている。
與那覇 周りは誰も自分を気にしないのに、自分だけが「ケアさせられている」という被害者意識に苦しむ人が、すごく増えたように感じます。
上田 そういう人間関係が疲れるし、煩わしいからAIのほうが楽そうだなという流れがあるかもしれない。同調圧力が強くて、人の顔色ばかり気にすることにみんな疲れてしまった。
與那覇 それで誰もが「AIが伸びれば対面は要らない」みたいな極論に飛びつき、共演相手の気持ちなんか「ケアしないぜ」と態度で示すタレントに拍手している。
いま、仕事が終わったあと打ち上げに行くのも「古い昭和の働き方だ」みたく叩かれますよね。でも飲み会って本来は、内面に触れるハードルを「ちょっと下げようよ」という趣旨でしょう。互いの気持ちに興味がなく、単に終わる時刻まで座ってるだけなら、そりゃつまらないに決まっている。
上田 日本はアメリカのような移民社会ではないので、割り切れないところもある気がします。つまり、同質性が高くてみんな同じはずなのに、「なんでこの気持ちがわかってくれないんだ!」のようになってしまう。同質性が高くなければ、わかってもらえないところもあるよねと、あきらめがつきますから。
與那覇 本当は自分がNGだと思うなら、個人としてそう言えばいいんですよ。みんなが推してても「君は」嫌なんだね、として配慮されるのが、多様性のある社会で。
しかし日本ではAIにせよ、「社会として」推す空気になった話題について、違うことを言わせない〝同調圧力〟があります。歴史が終わった90年代以来の、新しいトピックは人類の進歩として「必ずポジティブに語るべき」とするモードが続いていて、乗るのをためらうだけでもダサいとされてしまう。
上田 「Web2.0」を始め、コロナのときの「新しい生活様式」とか、これからは全部リモートで出社しなくてもよい未来が来るとか。あれで地方に家を買った人もいたな。
與那覇 なのにすぐ、イーロン・マスクのようなテック長者にまで「出社しないやつはクビだ」と言われてしまって(笑)。
上田 僕は当時からそんな〝ポジティブ言論〟に騙されるなよ! と思っていたけど(笑)。特にオフィス回帰はぜったいに起こると思ってました。
與那覇 戦後80年の今年、歴史はむしろ「ネガティブさとつきあう術」だということを、改めて感じました。顔写真をAIでジブリ風のアニメキャラに加工するのが人気で、往年の風景写真さえ誰でも「ジブリ化」できちゃういま、歴史や過去を親しみやすいものにすることは、かつてなく容易です。
でも、じゃあアウシュヴィッツや原爆投下後の広島・長崎の写真を「ジブリ風に加工して広めよう」と言われたら、多くの人は立ち止まると思う。それはやっちゃいけない、悲劇に遭った人の個別性を剥奪し、もてあそぶ行為だからという感覚がストップをかける。その感覚を継承してゆくことが、AI時代における歴史の本当の意義だと感じます。
上田 去年、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』が文庫化で話題になりました。あの作品はマジックリアリズムと呼ばれて、すごくファンタジックなことがたくさん起こる小説だけど、〝リアリズム〟というところが重要なんです。小説内での世界観が確立されていて読者が〝リアル〟に感じられることが肝になっている。これは、小説の作者が現実をよく把握していて、小説世界にうまく現実を異化できているから可能なんですよね。同時にこれをAIが書くことは不可能だと思います。統計とか、それっぽいものに加工することができない〝リアル〟なものを小説にしていきたいなと思います。