世界的にも注目される村田沙耶香の新刊『世界99』(集英社)
村田沙耶香の『世界99』は、文芸誌「すばる」に3年以上にわたって連載され、2025年3月に単行本上下巻として刊行された。村田のこれまでの長編小説の中で最も長い。しかも飛びぬけて長い。
『世界99』の特設ホームページで、村田は、「生まれて初めて小説を連載し、どんどん膨れて長くなってしまい3年以上経っていて、こわかったです」とコメントしている。この「こわかった」というのは、作者の意識的な努力によっても作品がコントロールできず、膨張的に自然成長してしまった、ということなのだろう。ただしこの「こわかった」には、もう少し微妙な含みがあるように思える。
『世界99』は、「本当にからっぽ」であり「『無』の人間」である如月空子(きさらぎ・そらこ)という一人の女性の人生を軸に、世界が次第に<ディストピア=ユートピア>へと変質していくさまを描く。
今、<ディストピア=ユートピア>という書き方をした。これには理由がある。村田沙耶香は、特に『殺人出産』(2014年)や『消滅世界』(2015年)など以降、SF的な設定に基づくディストピア小説を好んで書いてきた。ところで、まず一般に言われるディストピア小説を定義してみよう。ディストピア小説はしばしば、<その世界の中に住む人々にとってはユートピアである、しかし、主人公などの少数の人間にとって、あるいは読者にとっては、それはディストピアに感じられる>というねじれを抱え込んでいる。ディストピア小説の名作と言われるジョージ・オーウェル『1984』にせよオルダス・ハックスリー『すばらしい新世界』にせよ、(さしあたりは)そうである。しかし村田の<ディストピア=ユートピア>小説は、それらとも微妙に違うように感じられる。どういうことか。
たとえば『消滅世界』は、人工生殖や人工子宮の利用が当たり前になり、セックスも恋愛も家族関係も消滅していくノンヒューマン(非人間的)な世界の到来を描いた長編小説である。典型的なディストピア小説であるかに見える。
しかし、ある作品について私たち読者が「この小説はディストピア小説である」と決めつけて判断してしまうとき、私たちは、その作品の本当の「こわさ」から安全な距離を取っている。つまり、作品が描くディストピア的な社会や未来は、本質的に間違っており、それに批判的な意識を持ちえている私たち読者は、健全で正しい感覚をいまだ――少なくとも今のところは――有しているはずだ、と。あるいは、私たちの社会が近未来においてこうしたディストピアに転落しないように、理性的で健全な社会批判の意識を持ち続けねばならない、と。
ところが、『殺人出産』や『消滅世界』、あるいは『コンビニ人間』(2016年)や本作『世界99』などは、読んでいるうちに、そうした距離の感覚をかき乱し、失調させるようなところがある。語り手のみならず作者が、はたして、小説内の社会をディストピアとして批判的に描いているのか、あるいは、じつは本気でまじめにユートピアとして描写しているのか、つねに、そこには曖昧な不安定さがあり、読者を不安で落ち着かない気持ちにさせるのだ。ネット社会以降の人類をいっけん極端に戯画化している『世界99』でも、この根源的な不安は消えない。あるいは、消してはいけない。批判的距離という安全圏から『世界99』を読むべきではないのだ。
そうした感覚を手放すことなく、この小説の内容を追ってみよう。
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空子は自分が「「無」の人間」であると自覚する。また喜怒哀楽の感情をほとんど持たない。周りの子どもたちを真似して、感情があるかのように行動し、「キャラ」として自分の性格を演じ続けているだけである。空子は自分は人間ではないもの、ロボットや「哲学的ゾンビ」ではないかと感じる。意志をもたず、ただ危険を回避し、他者と摩擦を起こさず、安全に安楽に生きていくこと。空子は自分が「ただそれだけの生き物」であるという現実を肯定している。
空子は周囲の他者を「模倣」し、「トレースと呼応」を行う。そこから複数の新しい人格が分裂的に生まれる。それは空子の特殊な性質(たとえば解離性同一性障害=多重人格のような)だろうか。空子はそう考えてはいない。空子の住むこの世界では誰もが多かれ少なかれ分裂的人格を同時並行的に走らせて生きている。
小説家の平野啓一郎は、現代人のコミュニケーションのあり方を分析した『私とは何か――「個人」から「分人」へ』(2012年)の中で、人は「個人(individual)」ではなく「分人(dividual)」として生きればよいと言った。「すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である。/そこで、こう考えてみよう。たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である」(強調原文)。この説を受けるように、空子は人間関係やコミュニティごとの空気を読んで、必要に合わせて、「プリンセスちゃん」になったり「教祖」になったり「おっさん」になったりする。