しかしその後、ピョコルンの正体は、じつはラロロリン人の研究の暴走の産物であり、人間の遺体を蘇生させ、リサイクルした生命体であることが明らかになる。この<真実>の露呈によって、世界にカタストロフが訪れる。なぜならそれは、被害者面している誰もがじつは加害者の側である、という<真理>が露呈した瞬間でもあるからだ。ピョコルンという生命体を創造した組織の代表は、こう宣言する。「人間をリサイクルし、出産を管理し、100年後、人口50パーセント減を目指す。人間は地球にとって害獣であるのでコントロールすることは美しい。性犯罪激減、妊娠と出産の負担もリサイクルされた人間が引き受ける、より優しい世界へ。美しい提案。人類への素晴らしい提案」。
のちに空子は、その日は人類の価値観の「リセット」の日であり、あらゆる人々が「混沌」の渦の中に投げ出された、と振り返る。しかしその後、世界中の「恵まれた人」たちが力を合わせ、人間の社会を「再生」させ、今まで以上に徹底的に「クリーン」な世界を再構築する。「本当に公平なシステム」を、である。
そこでは人間的な喜怒哀楽の感情も、あるいは恋愛や性欲も、等しく「汚い感情」と見なされていく。「「リセット」と「再生」で私たちが思い知らされたのは、自分たちはとてつもなく無力だということだった。世界は一部の、「恵まれた人」によって動かされていて、私たち平凡な「クリーンな人」はそれに対して何もできないし、何の感情も抱く必要はないし、抱いても無駄なのだから、「恵まれた人」に任せていればいいのだと思う。/不思議なもので、綺麗な世界で暮らしていると、「汚い感情」は減っていく。思い返せば最近、怒ったり、嫉妬したり、激しく議論したり、そういう「汚い感情」をむき出しにした人をほとんど見た記憶がない」。
クリーンな人格はウィルス的に人類に「感染」し、いわばダウンロードされ、「みんな、からっぽの人間ロボット」になっていく。そして人類が功利的な「無痛文明」(森岡正博)を目指す中で、ピョコルンに妊娠出産を代理=身代わりさせることが一般化すると、子宮を切除する女性も増えていく。
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かつてラディカルフェミニストのシュラミス・ファイアストーンは、その著作『性の弁証法』(原著1970年、林弘子訳、1972年)の中で、女性が真に解放されうるのはテクノロジーの革命的活用によって――すなわち文化と技術をめぐる性の弁証法を通して――である、と述べた。これはよく知られた議論である。その意味では、村田沙耶香の小説もまたラディカルフェミニズム的な観点から読解することが可能と言える。
これはウーマンリブの時代だけの話ではない。たとえばフェミニズムと加速主義(テクノロジーの力を積極的に加速させて社会変革を目指す立場)を掛け合わせたゼノ・フェミニズムという立場がある。テクノロジーの加速によってジェンダーそのものの廃絶を目指す立場である。ファイアストーンや「サイボーグ・フェミニズム」のダナ・ハラウェイらの系譜に象徴されるように、それは歴史的に一つの水脈となってきた。
ラボリア・クーボニクスのマニフェスト「ゼノフェミニズム 疎外【エイリアネーション】の政治学」(藤原あゆみ訳、「現代思想」2018年1月号)によれば、ゼノフェミニズムは「疎外状態を、新たな世界を生み出す原動力と捉える」。すなわち生物学的規範のもとで「不自然」と見なされてきた人々――クィアやトランスジェンダー、健常とは異なる人々、妊娠や育児のために差別を受けた人々など――は誰もが疎外されており、「「自然」への賛美が私たちにもたらすものなど何もないということに気がついていくだろう」。そしてそこで切り開かれる未来は、「男」や「女」の再生産が自明で自然とされる未来ではなく、「異質【エイリアン】の未来」である。
加速主義の思想を翻訳・紹介している幸村燕(ゆきむら・つばくろ)の「訳者解説を超えて――エイリアン≠ゼノフェミニズム≠カトリーヌ・マラブー」(「ぬかるみ派」vol.2、2022年11月)によれば、ゼノフェミニズムとは、マルクス主義的な疎外(エイリアネーション)を逆手に取り、疎外を加速させ、自らをエイリアン化していくジェンダー廃絶主義的なフェミニズムのことである。そこでは異物的なもの、異質的なもの、外来種的なものなどの意味を持つ「ゼノ」は、クィアネス=エイリアネスという概念と重なっていく。
村田作品の登場人物たちには、徹底的な受動性がある、と述べた。そこでは主体的な能動性を発揮できず、現実や環境に対して受動的に適応するしかない。そうしたある種の弱さであり、無能さである。
たとえばある種のニューロマイノリティ(脳神経や発達のあり方がマジョリティとは異なる人々)のように見える『コンビニ人間』の主人公は、「普通の主婦」になりたいのでもキャリア女性になりたいのでもなく、小さな歯車としての「コンビニ人間」になることに自らの社会的な居場所を見出していく。
いや、居場所という言い方は、古い意味で、あまりに「人間的」(人間中心主義的)でありすぎるかもしれない。抽象的で無名的なコンビニ人間たちにとっては、現代的な技術と資本主義のフロンティアとしてのコンビニこそが、人工/自然という二元論を突き崩すような、地球的で非人間的【ノンヒューマン】な自然(生態系)そのものなのだ。彼女たちは確かに資本主義や社会秩序から疎外されているが、その疎外を徹底化することで、「異物的なもの、異質的なもの、外来種的なもの」としてのクィア=エイリアンへと生成変化していく。
このとき、村田沙耶香的な<ディストピア=ユートピア>とは、人為的に人工的に構築すべき理想的な社会体制のことではない。自然と人為の区別のつかない地球の力=運動そのものに一体化しそこに根差していくような――女性解放とエコロジーが交差するような――いわば<地球リブ>の手触りであり、そこに開かれていく<ヘテロトピア>(異他郷)である。ヘテロトピアとは、ディストピアでもユートピアでもなく、異質なものたちが混在し、交じり合いながら、新しい生命のあり方を生成していくような場のことである。
正直にいえば、私は、『世界99』は上巻第二章最後のカタストロフが実質的なピークであり、新宿御苑での「記憶奉納祭」という「儀式」へ向けてじわじわと進んでいく下巻第三章の展開は、物語としても思想としても、それほどうまくは行っていない、と感じた。より正確にいえば、第二章のカタストロフの衝撃を引き受けてそれを未来へ開くための新たなヘテロトピア的な<イメージ>が本作には足りない、第三章の展開はむしろ『消滅世界』『地球星人』(2018年)以前の段階に後戻りしてしまっている、と。
しかしいずれにせよ、『世界99』を、既存のディストピア小説という枠組みや、疎外された女性の狂気やある種の障害を描いたものとして「のみ」読むべきではないだろう。そうしてしまえば、私たち読者は安全なほどよい距離を取って、この作品に潜在する「こわさ」を選択的に中絶し、消費的に読み流してしまうだろう。はたしてそれがユートピアなのかディストピアなのかすらもが決定不能な、不安定で危うい場所において、『世界99』は読まれるべきではないか。そう考える。