玄関から入ると、正面の小さな部屋が書斎になっていた。ガルシア=マルケスが自ら「マフィアの洞窟」と名付けた部屋だ。なるほど2階ではなく1階だったのか。僕みたいな彼の小説の翻訳者が世界中からここを訪れてくるという。彼がこの地域に住むことにしたのは、当時映画関係の仕事をしていた場所に近かったからだという。とにかく静かな環境だ。『百年の孤独』を執筆した小さな書斎には、戸外に出る裏扉があり、ヘネイによると、ガルシア=マルケスはときおりそっと外に出て、近くのボラ公園をぶらついたりしていたそうだ。

『百年の孤独』を執筆した部屋 撮影:篠田有史
メキシコシティは全体的に東京とは比べ物にならないくらい緑が多い。ホテルの窓から見ると、『マクベス』ではないが、森が迫ってきている気がする。ここは都心でありながら実に閑静な住宅街なのだ。
まだ彼が大成功を収める前だったはずなのに、家が立派なので驚いた。もっとも二人の息子ロドリーゴとゴンサロは、当時子ども部屋が一部屋しかなかったので、二段ベッドで寝ていたと、ヘネイが教えてくれた。家賃の支払いが難しいときには妻メルセデスがオーナーと交渉していたが、ついに無理となったとき、執筆中の作品が完成して売れたら支払うという提案をして、それを聞き入れてもらったという。ガルシア=マルケスの成功の裏にはこういった事実がいくつもあることを周囲が証言している。それにしてもメルセデスはたくましい。

2階からの眺め。この道を行くとボラ公園がある 撮影:篠田有史
この家は、2020年2月にオーナー家がメキシコ文学財団に寄贈し、現在は小説家の卵に執筆環境を提供するプログラムを実施している。ちょうどこの日はそのプログラムに参加した若手小説家の修了イベントがあり、若い女性が多い気がしたが、関係者が次々と集まってきていた。
次に約束してあったのはフエゴ街144番地、いよいよガルシア=マルケスが『百年の孤独』の成功後に暮らし、終の住処となった邸宅に向かう。テレビ、新聞、ユーチューブで何度も目にしてきた門扉、そして秘書のモニカ・アロンソの姿があった。現在はプライベートエリアもあるとのことで、ガレージから庭に入る。カルタヘナの邸宅の庭と比べても勝るとも劣らない、手入れの行き届いた実に美しい庭だ。レモン、紫陽花、カメリア、ツツジ、ベンジャミン、ブーゲンビリア、カトレア、寄生植物のクスクスラン、コウモリラン……。植物が好きな僕は思わず名前を呼んでしまう。

フエゴ街144番地 撮影:篠田有史
書斎は増築されたそうだが、ここはモニカの仕事場にもなっている。1982年10月21日の朝5時にノーベル賞受賞の電話を受けた直後と思われるが、この庭で撮られたガボとメルセデスのよく知られたガウン姿のツーショットは、長男ロドリーゴが撮ったものだ。「あなた、やったじゃない」と言っているかのようなメルセデスの表情がとても良い。僕はモニカと、同じ場所に立って写真に納めてもらった。モニカのノリがよく、笑顔で応じ、腕まで組んでくれた。

庭に咲くカトレア 撮影:篠田有史