『ファスト教養』に怒る人たち
「ライトな自己啓発書は、よく「ファスト教養」って馬鹿にされるんですけど、そんなことなくて。こういうビジネス書は、誰が読んでも仕事をするうえでのベースとして役立つと思う。」
(「ホリエモン、見城徹、落合陽一。箕輪厚介が大物たちの懐に入れる理由」本の要約サイト flier 2023年9月26日)
拙著『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(集英社新書)の刊行後、「ファスト教養」という言葉を見聞きする機会が増えたように感じている(以下、本書について触れる場合は『ファスト教養』、現象や概念について説明する場合は「ファスト教養」と表記する)。もちろんこれは著者としてのバイアスがかかった印象だが、「ファスト」と「教養」という一見すると食い合わせの悪い言葉の結びつきは、決して少なくない数の人たちの心をざわつかせたのだと思われる。
『ファスト教養』は「ビジネスシーンで生き抜くためには教養が必要だ」といったタイプの言説に着目し、その特徴的な形を論じながらそういったコンテンツが支持される背景にある「自己責任」「新自由主義」という言葉に代表される社会の風潮、およびそんな時代と対峙するための現実的な処方箋についてまとめた本である。筆者自身が文章を書く活動をする一方で会社員として日々の仕事やそのための勉強に追われており、それゆえ「ファストに摂取できるコンテンツなんてだめ」「骨太の古典に触れることこそが教養」などのメッセージに何の意味もないこと(そして「文化的な教養主義者」は無邪気にそんなメッセージを発しがちなこと)を実感している。だからこそ、「ファスト教養」と名付けた現象やそこに包含されるコンテンツについても是々非々で評価したうえで、使えるものは使いながらバランスよく学びの姿勢を身につけていこうという話が本書の結論となった。
『ファスト教養』を注意深く読んでいただいている方からは「特定のコンテンツをファスト教養と“馬鹿にしている”」といった感想はあまり聞こえてこない。一方で、「ファスト」という表現が一定以上のアイロニーを含有しているのもまた事実であり、そこに対しての過敏な反応も一部で起こっている。
ここで考えるべきは、教養という言葉の持つ何とも言えない魔力である。日本語を母語として扱う人であれば、その大半が「あなたは知識がないですね」と「あなたは教養がないですね」のニュアンスの違いを敏感に感じ取ることができるだろう。『ファスト教養』の刊行発表時から今に至るまで、おそらく本書のタイトルだけを見たであろう方々が思い思いに自身の教養論を開陳しているのがSNSで確認できる。「そんな話はしてないんだけどな……」と「それ、本の中でがっつり深掘りしているんだけどな……」という思いを交互に持ちながら、もしかしたら相当厄介な概念に自分は首を突っ込んでしまったのかもしれないと背筋が寒くなっている。
「教養」と「批評」と「考察」、そして「推し」
「複雑な社会において、無数の交差性のなかで座標をもって生きるほかないわたしたちは、そう簡単に「どちらにも偏らない」ことなどできないのです。そんななかで「冷笑的」「評論家きどり」といった表現が一種の悪口として機能し、そう名指される対象のカテゴリが形成されてさえいるのは、興味深いことです。それはつまり、こうした「中立」の立ち位置をアピールすることが、その実として場における「力」の勾配の上位に立つことを――それもきわめて安易に――志向しているというのが透けて見えるからかもしれません。」
(『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす 正義の反対は別の正義か』朱喜哲、太郎次郎社エディタス、2023年)
任意の個人に関する教養があるかないかの判断は、時代や社会のあり方、そしてその場のシチュエーションに左右される。『ファスト教養』では昨今のビジネス書において「商談で取引先が好きそうな固有名詞を引き合いに出して気に入られること」程度の意味で教養という言葉が使われていることに触れているが、たとえばAさんがYouTubeの解説動画で仕入れた司馬遼太郎に関する話を商談の中に差し込んで、それによってその取引先が「そんなことを知っているなんてこの人は教養があるな」と感じるのであれば、その状況においてAさんは「教養のある人」として認定される。
教養主義というものが機能していた時代であれば、岩波文庫をどの程度読んでいるかでその人の教養レベルがある面からは測れたのかもしれない。しかし、そういった規範は2023年現在では崩壊しており、結局のところ教養の有無は場の空気によってジャッジされる。そんな状況だからこそ、「教養のあるビジネスパーソンになろう」と躍起になる人も、そのメッセージを発信する側も、「では教養のあるビジネスパーソンとは何か?」と言われると明確な答えを出せない。せいぜい「上の人に気に入られる程度におじさん好みの情報を持っておこう」くらいの話になってしまう。教養という高尚なラベルで語られる話の内容が実際には「空気を読め」の言いかえにしかなっていないケースも多い。
もともと存在した判断基準の崩壊と、その穴を埋めるものとしての「空気」の重視。教養を取り巻くそんな構造は、カルチャーやエンターテインメントの領域にも染み出しつつある。それが顕在化しているのが、昨今の「批評」に対する忌避とその裏返しとしての「推し」「考察」の隆盛ではないだろうか。
批評というのはある意味では「上から目線」の行為である。何らかの作品に対して、様々なロジックとレトリックを駆使してその内実を解き明かす。それは時には作品への高評価だけでなく、内容の批判につながることもあるわけだが、そういった批評というものに対するネガティブなムードが日に日に強くなっているのが昨今の文化を取り巻く現状である。