批評が嫌われる理由、それは先ほど述べた「上から目線」性に他ならない。歴史のあるメディアやそのジャンルにおける年長の評論家の一声、その評価の裏側にある一朝一夕には築けない知識体系。こういったもの自体が「偉そうで威圧感のあるもの」であり「自分たちの楽しみを脅かすもの」と捉えられるようになっている。近年ではファン側も「ファンダム」としてまとまることで発信力を持ち、自分たちの楽しみに外から水を差すような「客観的な意見」に対して敵意をむき出しにすることも多い。
そんな「上から目線」の(つまり自然と「場における「力」の勾配の上位に立つこと」になる)批評がかつてはカルチャーの領域で成立していた理由は何か。おそらく大きかったのは、発信する側とそれを受け取る側は直接つながれないという前提があったからだろう。批評家は、その両側を媒介する存在として重要な役割を担っていた。批評家による作品への意味付けを通じて受け手はその楽しみ方を学び、発信者はある種のステータスを獲得する。批評家という当事者以外の声があることによって、文化空間の多様性は保たれていた。
しかし、時代のあり方はSNSの浸透とともに一変する。発信者と受け手が直接つながるためのツールが充実したことで、その間に入っていた批評家の存在はノイズでしかなくなった。
批評を嫌うファンダムが求めるのは「推し」と「考察」である。応援する対象の声は絶対であり、それについて部外者が何かを言うのは耐えられない。特に、自分の推している対象についてのネガティブな声は聞きたくないし、何なら封殺してしまいたい。作品から読み取りたいのはあくまでも「作り手や演者がどんな意図を込めたか」というゆらぐことのない事実(らしきもの)についての答え合わせで、たとえばその作品やジャンルの周辺で起こっていることとの共通項を分析しながら「こういう読み解きもある」と視点を提示するような言葉には興味がない(なぜなら「作り手や演者がそう思っているとは限らないから」)。「推し」と「ファン」の閉じられた関係の中で、届けられるアウトプットにまつわる唯一の答えを「考察」する。そんな状況が各所で現出しつつある。
品質の高低や物事の善し悪しを勝手にジャッジする評論家には退場していただいて、仮に知識はなくても当事者としての熱量を推しにぶつけることで自らの快楽を最大化しよう。タイムリーな例を挙げれば、ジャニーズ事務所を取り巻く問題に関して「推しがかわいそう」というスタンスから各方面に心無い声をぶつける一部の熱意がいきすぎたファンの言動もそんな構造と密接につながっているとも言える。批評という外部からの目線が欠如することで、エンターテインメントは社会との接点を失うことになる。
「それってあなたの感想ですよね?」をねじ伏せるために
岡 (前略)よい批評家であるためには、詩人でなければならないというふうなことは言えますか。
小林 そうだと思います。
岡 本質は直観と情熱でしょう。
小林 そうだと思いますね。
岡 批評家というのは、詩人と関係がないように思われていますが、つきるところ作品の批評も、直観し情熱をもつということが本質になりますね。
小林 勘が内容ですからね。
岡 勘というから、どうでもよいと思うのです。勘は知力ですからね。それが働かないと、一切がはじまらぬ。
(『人間の建設』小林秀雄、岡潔 新潮文庫、2010年)
教養の有無がその場の空気やビジネス(というより金儲け)との距離感で判別され、批評が部外者の上から目線として嫌われる時代。そんな中で社会に最適化したコンテンツが「ファスト教養」であり、当事者だからこその楽しみ方として定着しつつあるのが「推し」と「考察」である。
すでに起こってしまったことはどんなものでも受け入れるしかないと考えるのであれば、この状況に「社会のニーズが形になっただけ」以上の意味を持たせる必要はなく、そこにアジャストして生きていく(作り手であればこの流れに合致するコンテンツを発信し、受け手であれば自分の好きなものをノーストレスで楽しむ)以外の選択肢はない。また、逆に「こんな世の中はけしからん」という老害的なムーブをとるのであれば、この状況を高みから憂いて本当にあったかはわからない古き良き時代の文化空間に思いを馳せていればよい。
本稿の冒頭でも触れた通り、『ファスト教養』ではこのどちらにも与することなく「ポストファスト教養の哲学」について検討した。そして筆者のスタンスは今も変わっていない。白黒つけることを目的にせず、それぞれの良い部分を丁寧に精査しながら、どう橋を架けるかについて考える。それこそが必要な態度である。
「ポストファスト教養の哲学」、さらには「ポスト“推し”時代の批評」について掘り下げるうえで、向き合わないといけない厄介な言葉が「それってあなたの感想ですよね?」である。ひろゆきの発言がミーム化したこのフレーズは、着実に社会全体に広がっている(小学校でも実際に使う子がいるというのを先日長女から聞いてうんざりしていたところだった)。誰かの意見をエビデンスの不備という観点から「論破」するこの言葉は、あらゆるものがデータ化される時代と非常に相性が良い。そして、「YouTubeの動画が何回再生されているか」「いくらお金が儲かるか」という数字が重視される「ファスト教養」、推しの生声を唯一の正解として絶対視するエンタメの楽しみ方には、「ここには感想ではない根拠がある」と言い切れる強度が実はある。
こう整理すると、今我々にとって最初に必要なのは「それってあなたの感想ですよね?」と言われたときに「僕・私の感想ですが何か悪いことでも?」と言い放てる図々しさではないかと思えてくる。どんな意見でも、まずは自分がどう感じたかから始まる。そこから目をそらして他人が決めた物差しで何かを考えてしまうこと自体に疑義を向けるべきではないか。
一方で、その図々しさが「エビデンス? ねーよそんなもん」に帰結するのも当然問題がある。必要なのは、その感想の裏付けとなる知識、そしてなぜその感想なのかを言語化するためのスキルである。とかく「好きなように感じるのが一番」「感想に良いも悪いもない」といった意見が支持を得がちだが、その表現のディテールまで含めて「好きなように感じる」ためには知識が必要であり、対象が包含する歴史的な意味や社会全体の流れを踏まえたうえでの感想と単なる思い込みからくる感想の間に良い・悪いの差は存在する(ジャニーズ事務所に対する批判を特定勢力によるジャニーズ潰しのためのものと決めつける意見を「感想に良いも悪いもない」とは言えないだろう)。
より楽しみ、より良い感想を発するためには、様々なことを知らなくてはならない。今はこういう意見自体が権威的で上から目線とされることは重々承知しているが、「良い観客」が社会の基盤をより強固なものにするということは何らかの形で語られ続ける必要がある。そして、様々なことを知るための入口は日々充実しつつある。要約コンテンツでも、自己啓発的なビジネス書でも、用法・用量を守って正しく使えばこれほど心強いものはない。多くの人が擬似的な免許皆伝(これを見れば、読めば教養が身につくという錯覚)のために触れるツールを、果てしなく続く勉強の入口に読み替えられるかどうかはあなた次第である。