戦後、米兵などを相手に街に立った売春婦(街娼)を指してさげすみのニュアンスで使われた俗称。「パンパンガール」とも。語源はインドネシア語のプルンプァン(女性)とも言われるが、諸説ある。特定の米兵の愛人となった女性は「オンリー」とも呼ばれた。
物資が欠乏し、着の身着のままの人が多い街なか、派手な化粧と服装で米兵と腕を組んで歩く彼女たちは冷ややかな視線を浴びた。だがその多くは、空襲、戦死、引き揚げによって父や夫を失い、経済的に追い詰められた女性たちだった。
労働省婦人少年局の資料によれば、1947年度で街娼の概数は全国で約2万6000人。社会学的な調査によれば、平均年齢は20歳で、街娼を始めた動機は「経済的理由」「やけくそで」「だまされて」など。母や幼い弟や妹を食べさせなければならない女性も多かった。
戦後、街娼が多く現れた背景事情の一つとして、日本政府が設置し、7カ月で閉鎖された米兵向け「性的慰安施設」の存在がある。
終戦から3日後の1945年8月18日、内務省は全国の知事に対し、進駐軍向けに「性的慰安施設」を含む慰安施設を設置することを指示した。警視総監の坂信弥(さか・よしのぶ)は後にこう回想している。「(首相の)東久邇さんは南京に入城されたときの日本の兵隊のしたことを覚えておられる(略)それでアメリカにやられたら大変だろうなという頭はあっただろうと思います」(村上勝彦『進駐軍向け特殊慰安所RAA』ちくま新書、2022年)。
東久邇首相に慰安施設設置を進言したのは近衛文麿だと言われている。これに応じて、全国各地に米兵向けの「性的慰安施設」が設置された。日本軍がかつて戦地に「慰安所」を設置したのと同じ発想である。
東京では、警視庁が飲食店や芸妓置屋などの関係団体を集め、銀行に巨額の融資をさせて「特殊慰安施設協会」(RAA Recreation & Amusement Association)を発足させる。発足したRAAは、以前から売春に従事していた女性たちをかき集め、さらには「女事務員募集」といった看板や広告でだまして女性たちを募集した。1日に20人から30人の米兵の相手をさせられることもざらであった。ショックから自殺した19歳の元タイピストの女性もいたという。
その後、米兵の間に性病が蔓延したことから、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は1946年3月に施設への兵士の立ち入りを禁止。施設は7カ月で閉鎖された。集められた女性たちは、「皆さんの犠牲で多くの一般女性の純潔が護られた」「お国のために尽くした」などといった言葉だけを与えられ、宿舎からも立ち退きを命じられた。全てを失った彼女たちは、街娼になるしかなかった。
1946年4月、NHKは有楽町駅のガード下で街娼たちにインタビューを行っている。女性たちのリーダーは、こう語った。
「あんたたち、エラそうなこと言ったって、この娘たちのために何をしたっていうのよ。そりゃあ、パンパンは悪いわ、だけど身寄りもなく、職もないあたしたちは、どうして生きていけばいいの?(略)世間なんて、いいかげん、あたしたちをバカにしきってるわよ」(大島幸夫『人間記録 戦後民衆史』毎日新聞社、1976年)
今も記憶されるヒット曲「星の流れに」が登場したのは1947年。「こんな女に誰がした」という歌詞をパンパンたちが口ずさんだことで、世に広まっていったものだった。