
純文学はこっちを振り向いてくれない?
鴻池 僕、今年でデビューして10年なので、これまでの小説家としての自分の歩みを振り返ってみて、色々と思うことがありましたね。
ニシダ たとえば、どういうことですか?
鴻池 デビューしてから、新人賞の下読みや小説講座の特別講師をやらせてもらったりしたんですね。それをやっているうちに気づいたんです。小説を世に発表すること、本が売れることとかより、人は小説家を目指そうとする瞬間が最も美しいんだなと。だから、もしかしたらデビューする前のほうが自分は輝いていたかも、俺は何かを失ってしまったんじゃないかなとも思ったんですよ。
ニシダ そうなんですね。
鴻池 他人の評価とか、人に読まれる、本を出すことすら大したことはなくて……。小説を書くというのは、自分を取り戻そうという行為なんだと思う。人は世の中のルールや他人の物語に流されて生きていくんですよね。でも、小説を書く行為は、「自分で人生の舵を握るぞ」という決意だと僕は思っているんです。それは舵を握って航海するか、しないかではないんです。デビューできるか、できないかも関係ない。舵を握る、握ろうと決意した瞬間が美しいんです。
最初の純文学の定義の話に戻るんですけど、これは別にエンタメ小説や漫画を下に見ているわけではなく、単純に純文学とエンタメが違うのは、エンタメは大衆向けなんです。
ニシダ マーケティングとかで、はっきり読者層を意識して書くことも可能ですもんね。
鴻池 そう、マーケティングで書くということは、読者の要求に応えることであって、これは普通に生きていることと変わらないんです。自分が本当に書きたいことではなくて、他人が読みたいものを書くことになる。もちろん、いまの資本主義の世の中でそれを完全には否定できないわけだけど、純文学はやっぱり読者ではなく自分のために書くんです。この自分のためだけに書くことに崇高性が宿るんです。
ニシダ そのモチベーションは、ほかのエンタメにはないかもしれない。
鴻池 純文学は読者へのサービス精神で書かれたものではないんですよ。世の中にはたくさんサービスがあるんで、僕からすると、ほかのエンタメは代替可能なんです。でも、純文学は唯一無二。だから何度も読み返したくなるんじゃないかな。
ニシダ あー、そうかもしれない。
鴻池 サービス精神がないから、こっちに〝いい顔〟してくれない。振り向いてくれないから、こちらから追いかけるしかないのが純文学ってやつなんですよ。
ニシダ 何回読んでもわからない作品ありますもんね。でも、おっしゃる通りで、「小説を書こう」ってよく考えたら意味わかんない。
鴻池 ねぇ(笑)。だから、エンタメだったら、これを書いて有名になる、ヒット作出して金稼ごうとか目標も立てられる。だけど、純文学の小説を書きたいっていうのはちょっと頭おかしいよ(笑)。
ニシダ とりあえず叫んでいるみたいな感じですよね。広大な砂漠みたいなところで、ひとりで「ここに俺はいるぞ!」って。
鴻池 そうそう!
ニシダ ただ、自分の場合は読者としては、純文学もエンタメなんですよ。
鴻池 わかります。このわけわからないものを読むことが楽しいんですよね。漫画も映画も、お笑いも、音楽もエンタメで、そのなかに純文学もある。
ニシダ ミッキーとかもいる(笑)。
鴻池 いるいる(笑)。自分が楽しいものは全部、エンタメですから。
ニシダ 自分の場合はあまり友達もいなかったし、でも本読むのは楽しかったなという気持ちがずっと続いているんです。だから、書いてはいるけど、読むのはやめたくないなって。
鴻池 それは、書くのをいつかやめたとしても?
ニシダ そうです。書くことをやめる可能性はある。あるというか、つまり、出版業界のなかで自分に需要がなければ終わるわけですよね。よく聞くんですよ。書き手になったことで、ほかの人の作品が読めなくなった、楽しめなくなったって話す人がいる。でも、自分は読むのはやめたくないんですよね。自分にとってこんなに楽しいことはないんです。
鴻池 最後にとてもいい答えが聞けました。今日はありがとうございました。
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