「私だって本当は行きたくないのだ」という気持ちを隠し、ニュースでやっているのは、国全体のほんの一部のことだから心配はない、と説明した。もちろん私だってまだ現場にはいないのだから、実際のところは分からない。最後はみな、気をつけてね、頑張ってね、と言ってくれた。ひとまず安心はしたが、責務を果たした解放感は期待していたほどでもなく、こんな時にきちんと会って話さずLINEでの報告になってしまったことへの罪悪感の方が心を締め付けた。
アフガニスタンの情勢悪化のニュースが連日目立ってきた。家族も見ているだろうと思うとつらかった。
●8月20日
私にもしものことがあった時のことも考えていかなくてはならない、とリストを作った。マンションやクレジットカードなど、解約しなくてはならないものを書きだし、MSFの事務局に返却しなくてはいけないセキュリティカードなどをメモとともに部屋の分かりやすいところに置いた。かつては当たり前のように平気で毎回行っていた作業であったが、今回はこんなことは二度としたくないと思った。ふと、他のみなはこういう時にどうしているのだろう、という思いが頭をよぎった。紛争地に行く前に、同じような整理をしているのか、しているとしたらどのような思いを抱えながら行っているのだろう。今まで気にも留めたこともなかった。
●8月21日
タジキスタンのビザが降りずに出発が延びている。部屋は全て片付き、荷造りも終えている。あとは、ビザが降り次第の出発だ。飛ぶのは今夜か、明日か。
この日の午前中、呼吸困難が襲ってきた。何年ぶりだろう。いつもは帰国後、特に電車の中で起こることが多い。この不安を誰に伝えられるだろう。今回は自分でもビックリするほどに、派遣に対して消極的だ。私は一体どうしてしまったのだろうか。心はエネルギーを欲していたが、どうやって満たされるのかが思い浮かばなかった。美味しいものでも食べに行ったら少しは気が紛れるだろうか。そんな単純なことではないだろう。
そうだ、と思い起こし、長いこと連絡を取っていない知人に連絡した。かつて、私に万が一のことがあった場合には、Facebookをクローズしてほしいとお願いしていた人物だ。私のいないところでSNSがひとり歩きをしないためには不可欠だ。事情を説明し「例のお願い」を伝えた。「了解」という軽快な返事がくると思ったが、「縁起の悪いことを考えないように」とかわされてしまった。この人には私の不安をさらけだし、そして慰められたいという甘えがあったが、割とアッサリと会話は終わった。Facebookの過去の投稿やプロフィールを全て非公開にし、これで心残りなく出発ができると思った。
出発は8月23日と決まった。タジキスタンのビザはまだ降りていないが、まずは経由国のトルコに出発し、イスタンブール国際空港の到着時にまだビザが降りていなかったらそのままイスタンブールで待機するように指示された。こうして私は羽田空港から旅立った。
イスタンブール空港に到着し、メールをチェックするとタジキスタン入りのビザはギリギリ届いており、すぐにタジキスタンに向かった。タジキスタンには私を入れて7人が各国から集まっていた。ここからはこのメンバーとともにアフガニスタン入りを目指す。
●8月26日
タジキスタン、ドゥシャンベ空港の駐機場で、朝日を独り占めしたMSFのチャーター機が最終点検を受けていた。2名のパイロットに誘導され、機内に乗り込む。私たちのためにアフガニスタン行きのフライトを担ってくれたこのパイロットたちにも頭が下がった。人道支援は、本当にたくさんの人々に支えられているのだと、ここでも実感した。
ここからはまずカンダハール空港に向かい、アフガニスタンに入国する。メンバーのうちカンダハールで活動する予定の1人を降ろし、そしてカンダハールで待機している別の2名を拾う。そこからは8人で最終目的地、ヘルマンド州のラシュカル・ガーを目指す予定だ。
チャーター機のエンジンが動き始めた。座席からの振動が一瞬にして全身に行きわたる。その振動で、私の魂までもが刺激されたようだ。窓の外のプロペラが回り始めたのと一緒に、私の心の奥底からも何かが湧き上がってきた。懐かしい。現場の匂いが感じられてきた。
「MSFの存在と、活動の継続は、こんな時であっても現地の人々のためにとても重要だ」
活動責任者の言葉が蘇り、エネルギーが身体を巡回し始めた。
カブール空港での爆破テロが世界中でニュースになっていた日、私たちはアフガニスタンに向けて出発した。