むしろ、極めて既視感のある話しか書かれていなかったのである。
一般の人が『日本国紀』を読んでも問題ない
実際に読んでみるとわかるが、実は『日本国紀』の内容は過激ではない。言うまでもなく、「戦争を煽る」たぐいの危険思想を宣伝するメッセージも示されていない。むしろ、内容は甚だ人畜無害で、「愛国者」以外の一般読者でもさして抵抗なく受容できる範囲の言説にとどまっている。
百田・有本両氏は、スピンオフ的な対談書籍『「日本国紀」の副読本』で既存の歴史教科書への強烈な反発や敵意を再三にわたり示しているが、『日本国紀』の大部分(全体の5分の3を占める明治前半まで)の内容は、大筋においては教科書とあまり変わらない記述が続く。
つまり、高校まで真面目に日本史を勉強した人なら、知的好奇心は刺激されないが、価値観を変えられることもない無難な内容だ。もちろん、『日本国紀』には学問的に間違った記述や史料の不正確な引用が多々あるが、これは過去のビジネス系文庫の日本史概説書や民放系の歴史番組も同様だし、司馬遼太郎の歴史エッセイだって例外ではない。アカデミズムと距離を置く一般向けの歴史コンテンツは、もともとそういうものであり、突っ込む方が無粋である。
あくまでも一般書として見るなら、『日本国紀』の冒頭から5分の3以上の記述に致命的な問題はない。歴史をちゃんと勉強したい人は、記述の信頼性が担保された高校日本史Bの教科書(もっと簡単なものが必要なら「日本史B講義の実況中継」系の受験参考書)を読んだほうがいいと思うが、それは各人の趣味の問題だ。
ただし、日本史にそこそこ詳しい人は、記述の不正確さゆえに最後まで真面目に読み通す気にはなれず、かといって日本史の知識がない人は前近代パート(全体の5分の3)で延々と続く抑揚のない記述について行けず――、という問題はあるかもしれない。
『日本国紀』は平易な文体で書かれてはいるが、日本史が得意な人にも不得意な人にも読破への高いハードルを要求する、「難読の書」なのである。
5分の3を過ぎてからが「本番」だが
『日本国紀』において、教科書的な内容から逸脱した「愛国者」らしい歴史観が顔を出すのは、全体の5分の3を過ぎた326ページの韓国併合の記述あたりからだ。特に408ページ以降の戦後の記述では「愛国者」陣営に特有の歴史認識であるWGIP史観が登場しはじめ、長かった助走を経てようやくそれっぽい話が始まった感がある。
〔※WGIP史観とは、GHQが占領下で実施した日本人洗脳計画「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」の影響が現代日本まで残り、自虐史観や「反日」的な国家観をもたらしているとする歴史認識である。1980年代に江藤淳が発表して以来、保守論壇の内部で繰り返し主張され続けてきたが、2010年代後半のケント・ギルバートの著書のヒットで広く一般に知られるようになった。なお、WGIP史観を裏付ける内容の学術論文はほぼ皆無であり、英語ではWGIPに関するWikipediaの記事すら存在しない〕
ただし、『日本国紀』で示されるWGIP史観はギルバート本など先行書籍の同工異曲であり、内容はむしろギルバート本よりも穏健だ(なお、私は過去に『Newsweek日本版』でギルバート現象の検証記事を書いた際に彼の著書30冊近くに目を通し、彼の長年のビジネスパートナーである日本人S氏にもインタビューしている。S氏は極めてステレオタイプな「愛国者」であった)。
終盤部分で「愛国者」的な記述が多くなるとはいえ、やはり『日本国紀』のオリジナリティは薄い。WGIP史観を知っている「愛国者」は、『日本国紀』を読む前にギルバート本などを通じてとっくに知っているはずであり、いまだに知らないような人はそもそも本書を全体の5分の4までちゃんと読み続けるのか疑問だと考えれば、やはり『日本国紀』は人畜無害の書であると評してよいかと思える。
エスタブリッシュメントに対する反乱
一般読者をマーケティング対象に取った『日本国紀』の内容自体は、独創性に乏しい凡庸な書籍にすぎない。それにもかかわらず、世間の一部で同書が過激なイメージを持たれている理由は、百田・有本両氏をはじめとした制作スタッフたちが、ツイッター上などで場外乱闘的に挑発的なメッセージを発し続けているからだ。
こうした「SNSの百田・有本」の顔が強く出ているのが、スピンオフ書籍である『「日本国紀」の副読本』である。書籍のオビで「驚異のベストセラーは私たちの反乱だ!」と訴える同書において、有本氏は『日本国紀』のコンセプトやその読者層を以下のように説明している。
「私は、百田さんの本で初めて本というものを最後まで読めました」と言っている人がいるんですね。それまで読書の習慣などなかった人、本を読んだら頭が痛くなってしまうとか、眠くなってしまうと言っていた人でも、百田さんの本だったら読み通せたという人がいます。こういう人たちにとってみれば、「百田さんが書いたんだったら、私でも読めるかもしれない」「私の歴史、私たちの歴史になるんじゃないか」と感じるでしょう。こういう幅広い層の読者から「叫び」があがっている。(25ページ)
私たちの国を「この国」呼ばわりしてきたエスタブリッシュメントに対する、日本人の、民衆の反乱です。(28ページ)
出版不況と言われて久しい今日、これほど熱く求められた本があったのかと多くの出版人が驚嘆する一方で、この現象に「怒り」を滾らす人々もいた。(中略)この自称「史料が読める知的な方々」にとって、『日本国紀』および「百田尚樹」は、親の仇のごとき存在らしいが(後略)。(265~266ページ)
こうした強いメッセージが、百田・有本両氏の熱心な支持者である「愛国者」を対象に発信されているのは明らかだろう。「愛国者」的な人が、エスタブリッシュメント……とまではいかなくとも、既存のシステムのなかできれいな話や難しい話を言っている人を強く嫌う風潮は、ドナルド・トランプ政権を誕生させた昨今のアメリカを見てもよくわかる話だ。
「勉強ができない人」を救済する論理の正体
そもそも、世間では勉強が得意な人よりも不得意な人のほうがずっと多い。「歴史の勉強が難しいのはあなたがバカだからではなく、教科書を作った連中が反日サヨクの売国奴だからだ」(要約)という主張は、大勢の人たちの劣等感を救済する福音になる。
これは昔の共産主義者が「生活が貧乏なのはあなたが悪いのではなく、あなたから悪辣な搾取をしている寄生虫野郎の資本家のせいだ」とプロレタリアートに呼びかけたのとよく似た救済のロジックだ。この手の主張は「反乱」を煽る上では非常に有効に作用する。
だが、19世紀欧州の暴力的な資本主義社会において、貧困層はどう努力しても豊かになる機会がない「持たざる者」だったので、革命でしか救済されないと考えたのも仕方ないが、現代の日本社会は曲がりなりにも言論の自由が保障されている。仮に特定の分野の知識を「持たざる者」であっても、その気になれば街の図書館や本屋やインターネットで簡単に知識にアプローチできる。
本来、ちょっとの努力で得られる果実を得ない人を、「あなたがそれを得られないのは✕✕のせいだ」と焚きつけて誰かへの憎悪を煽り、社会をむやみに分断させて自分の味方を増やそうとする言説は、一般的には「扇動」とか「ポピュリズム」と呼ぶ。
しかし、こうして扇動された人たちは、自分を救済してくれた(気がする)扇動者に対して本人のプライドを投影するので、自己存在を賭けた凄まじい熱意を持つ支持者になる。すなわち、購入した書籍を神棚に飾るほどの、だ。