【ちょかる(ちょける)】滋賀県の方言。「調子に乗る」「イキる」あたりに近い意味だと説明されることが多いが、実際は「イキる」ほどは前のめりなニュアンスがなく、やや軽率で憎まれつつも世にはばかっている感じの人を指す。
【File002:書誌情報】
●橘玲『言ってはいけない 残酷すぎる真実』(2016年4月、新潮新書、256ページ、本体価格780円)
●橘玲『もっと言ってはいけない』(2019年1月、新潮新書、256ページ、本体価格800円)
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「優秀な30~40代ぐらいの起業家が集まるような場所に行くと、リバタリアンがものすごく多く、しかもリバタニアリズムを主張することにみんな何の疑いも感じてないんですよ。私は先日、この種の場で『どうしてそんなにリバタリアンを敵視するんですか?』とけげんな顔をされました。」(1)*以下数字は、引用の出典箇所を示す。文末に一覧あり。
今年4月13日、ジャーナリストの佐々木俊尚氏がこんなツイートをした。反響はなかなかで、本稿の執筆時点(7月末)で約1200件のリツイートと約1700件の“いいね!”が集まっていた。
リバタリアニズムは、個人の自由を至上のものとして重視する、究極的に“リベラル”な考え方だ。
まず経済の自由について言えば、個人の財産権の侵害であるとして徴税に反対し、福祉をはじめとした国家による公共サービスの提供にも消極的な立場を取る。国家というものを本質的にあまり信用していない、少なくとも国家の役割を大きく評価しない立場である。
対して、個人の自由については、“他人に迷惑をかけない”限りは、国家のルールや社会規範によって行動やライフスタイルが制約されてはいけないと考える。
例えば、賭博やポルノ表現やマリファナの吸引は“他人に迷惑をかけない”範疇であれば自由である。伝統や宗教・道徳的倫理といった、情緒的かつ不文律的な規範意識に従うことも好まれない。加えて性別や性的指向、国籍や民族といった属性によって個人を差別することも忌避される。
ただし、リバタリアンは自由の代償として自己責任を強く求める。ヤクをキメるのもバクチを打つのも“自由”だが、その結果として困窮した人を税金で救済するのには反対だ。困窮者の救済は、国家ではなく民間の寄付やボランティアでなされるほうが好ましいという考えである。
日本の若手起業家に蔓延するリバタリアニズム
自由と責任は紙一重。伝統的な日本人の価値観からすれば、ちょっと怖い考え方だろう。語源に同じ“自由(希:liber)”という言葉が使われていても、護憲やアベ政権反対を掲げて官邸前でデモをおこなう日本型のリベラルの人たちとは、ほとんど一致しない世界観でもある。
ただ、冒頭の佐々木氏のツイートで指摘された、30~40代の若手起業家を中心にリバタリアニズムが蔓延している現象も理解はできる。
現在、日本は政治や経済の各方面で、今後一層の衰退が確実視されている。そんな日本の国家や公的システムを信用してもろくなことはない。加えて従来の日本の社会規範こそが“負け組国家”を作った元凶のひとつなのであり、そんなものをありがたがっていては、自分も日本と一緒に沈没してしまうだけである――。
シュリンクする社会のなかで、それでも自己実現と社会的成功を果たしたい人にとって、リバタリアニズム的な価値観はかなり有効性が高そうな生き方の指針のひとつだ。
近年、そんな社会の風潮を反映するような著作が大きな支持を集めている。例えば作家の橘玲氏による一連の著作だ。ちなみに橘氏自身はリバタリアンではなく“リベラル”を自認しているのだが、私の実感としてはリバタリアンに近いかと思える。
腑に落ちる「不愉快」な事実
「最初に断っておくが、これは不愉快な本だ。だから、気分よく一日を終わりたいひとは読むのをやめたほうがいい。」(2)
2017年に新書大賞を受賞した橘氏の『言ってはいけない』はそんな一文からはじまる。主に欧米圏の行動遺伝学や脳科学の成果からもたらされた見地をもとに、われわれの社会で従来はそれを考えることすらタブー視されてきた「残酷すぎる真実」をロジカルに説明した書籍だ。
『言ってはいけない』は、続編の『もっと言ってはいけない』と合わせて、シリーズ累計で55万部を記録することになった。両書において著者が指摘した内容の一部を挙げておこう。