倫理なき社会とリバタリアニズム
北米や西欧において、“リベラル”やリバタリアニズムが一定の力を持ち得るようになったのは、社会のなかに宗教的な規範や道徳意識を持つ人が少なからずおり、加えて寄付やボランティアにも積極的な倫理観の文化が根付いていることが前提となっているからだ。これらがカウンターバランスとして機能し、合理主義によってデザインされる社会の弱い部分を補完し得る可能性を持っているとみなされているのである。
だが、こうしたバックグラウンドを持たない社会において、合理主義精神だけを突出させた“リベラル”な意識が定着すればどうなるのか。その実例を示すのが、同じ東アジアの中国社会における問題だろう。
日本は(特に“魂の労働”の分野で)職業的な倫理意識や情緒的な面での配慮は非常に質が高いものの、社会における宗教的な規範や道徳意識が本質的には薄い点では、中国とそれほど大きく変わらない。加えて、実は中国では寄付文化はかなり盛んなのだが、日本の場合は寄付やボランティアをうさんくさいものとして見る風潮がかなり根強い。
『言ってはいけない』シリーズが提唱する“リベラル”でスマートな社会の見方は、正直に言って魅力的な面がある。ただ、それが昨今の日本では実質的にどのように受け入れられ、どのような形で実践されていくかについては、私は悲観的な見方をせざるを得ない。
書中でもほのめかされているように、社会を担う少なからぬ人たちはそれほど“賢い”わけではない。ことに日本の場合、経済力や社会的地位の面で“劣った”性質を持つとみなされてしまう人たちや、障害者や老人や子どもといった弱者を軽視したり蔑視したりする価値観を保持し、民間主体の慈善的なセーフティーネットを設けることにも消極的なまま、合理性の面だけを突出させた“リベラル”(=中国式のリベラル)を実践しそうに思える。
ちなみに、私はもともと橘氏の著作が好きなほうだ。『言ってはいけない』シリーズの他にも『朝日ぎらい』や『臆病者のための株入門』『知的幸福の技術』、週刊プレイボーイの連載などなど、氏の文章をかなり多く読んでいる。
なにより私自身、政治・経済的志向を測定するポリティカル・コンパスをやってみるとリバタリアンだと診断されることが多い。自分の傾向に近い政党をネットで診断するボートマッチでも、国際的な基準では“リベラル”である維新系の政党との合致度が高くなりがちだ(実際に投票はしていないが)。現代日本の30代の自営業者としては、私はおそらく平均的な価値観を持っているようである。
ただ、それでも『言ってはいけない』シリーズにはなんだかモヤモヤする。橘氏自身が書中で述べているように、やっぱり、なぜかすごく不愉快な気持ちになる本なのだ。
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【『言ってはいけない』『もっと言ってはいけない』のちょかり指数】
しっくり度……★★★★
“リベラル”度……★★★★★
明るい未来を感じられる度……★
モヤモヤ度……★★★★★