・「知能は遺伝する」(3)
・「犯罪は遺伝する」(4)
・「人種間で知能の差がある」(5)
・「経済格差は知能の格差だ」(6)
・社会の分断は「人種問題ではなく“知能の問題”」(7)
・「外見から知性は推測できる」(8)
・「容姿による収入の格差はたしかに存在する」(9)
・「家庭が子どもの性格や社会的態度、性役割に与える影響は皆無」である(10)
・「子どものパーソナリティ(人格)は、遺伝的要素を土台として、友だち関係のなかでつくられていく」(11)
・「知識社会に適応できない国民が多いほどポピュリズムが台頭」する(12)
・「リベラルな社会ほど遺伝率が上がる」(13)
・「言語的知能が低いと保守的になる」(14)
まさに「不愉快」と感じられる話が続くが、橘氏の記述は一定のファクトや国外の研究成果に基づいている(とされる)。そして困ったことに、これらの記述はいずれも私にとって“腑に落ちる”(気がする)のである。
わかりにくさを両断するが…
例えば、知能や犯罪的傾向に遺伝要素が認められることや、人間の外見から生じる格差の存在については、それを明言する行為自体に抵抗感を覚える。だが、私たちの多くは、こうした事実があるらしいことをある程度は体験的に感じ取っている。
また、生来的に知能が高くない子どもやその親を「やればできる」という言葉でしばることは「ものすごく残酷」だと橘氏は書く(15)。
「やればできる」という、一定の努力によって必ず成果を上げられるかのような言説は、万人の能力に本来は優劣がないという仮定を前提にしているからだ。だが、「どんなに努力してもどうしようもないことがある」という(16)。
ひどい話に聞こえるが、理解できなくはない。東大に入学できる知能を持たない子どもに東大入学を目指す努力をさせる行為は残酷なのだ。私自身、子ども時代に体力テストで学年ワースト1位を取るほど運動が苦手だったので、“やればできる”“できないのは努力が足りないからだ”といった言説の暴力性はよくわかる。
ほか、『もっと言ってはいけない』では、OECD主催の国際成人力調査(PIAAC)のデータをもとに、ものすごい仮説を出している。ポピュリストに扇動されてフェイクニュースを信じ込み、どんな客観的な説明にもまったく耳を貸さない人たちが、先進国のなかでも一部の国(アメリカなど)で特に顕著である理由だ。
「知識社会に適応できない国民が多いほどポピュリズムが台頭し、社会が混乱するのではないか」(17)
従来、上記のような人たち、つまりポピュリストに扇動されて陰謀論や排外主義を信奉し、インターネットでむやみに攻撃的な言説を垂れ流す人たちが先進国のあちこちで生まれた理由としては、社会のネオリベ化やグローバル化による格差の拡大などが挙げられることが多かった。
だが、そうした理屈っぽい理由ではなく、そもそも彼らが“知識社会に不適応”(=要するにバカ)な人たちだからであるという端的極まりない説明は、圧倒的にわかりやすく、“しっくりくる”。
日本でも今年7月の参院選で、YouTubeウケのいい“笑える”政見放送を通じてNHKへの攻撃だけを訴えていた政党が1議席を取ったばかりだが、彼らの勝因についても、一部の選挙民のこうした傾向を指摘するのは可能だろう。
情緒的な好悪を別とすれば、橘氏が指摘する「残酷すぎる真実」の多くは、“正しい”指摘に見えるのである。
ある意味で“リベラル”を極めている中国人
橘氏の著書などで示されている“リベラル”でロジカルな考え方は、情緒的な倫理やタブーの意識にとらわれない、人間の自由を肯定する思想にもとづいている。だが、こうした考え方が日本社会のメインストリームに定着することが多くの人を幸福にするかと言えば、私ははなはだ疑問でもある。
そう考える理由を、自分の専門に引きつけて述べておこう。実のところ、中国は権力体制こそ専制的かつ人権抑圧的だが、社会のなかで生きている個々の中国人――特に都市部の30~40代の人たちのマインドは、ある意味で極めて“リベラル”的、もっと言えばリバタリアン的だ。
あくまでマクロな傾向としてだが、中国の社会は過去の社会主義革命や文化大革命で伝統や倫理規範がいったん破壊され、さらに天安門事件によって中国共産党が従来提供してきた社会主義的な道徳規範も崩壊したこともあってか、非常に脱宗教的で合理主義的である。
当局による愛国主義宣伝は多いものの、中国人は社会でまともに働き資産を形成している人ほど、個人のレベルでは国家も社会もマスコミも企業もまったく信用していない。彼らが信用するのは、極端に言えば自分自身と親族と、親しい朋友(友人)だけである。
彼らは国家が税金を正しく使うとは考えていないので、税金は安いほどよく、その裏返しとして公的な社会福祉にも過度の期待は持っていない。中国において医療や教育の信頼性はカネと引き換えに個別に担保されるものであり、事実、国家が万人に対して等しく提供するようなものとはなっていない。
他方、特に都市部においては“他人に迷惑をかけない”(加えて“体制に反対しない”)限り、個人がよほどヘンなことをしていても放置してもらえる。ある行動が他人から“迷惑”だとして糾弾される基準はかなり甘い。
実は中国社会の都市部では、疑似的な“リベラル”社会がある意味で日本以上に実現しているとも言えるのだ。
合理性VS人道性
しかし、そんな中国において、近年顕著な社会問題がある。医療・保育・介護といった、労働従事者に金銭的な利益だけでなく道徳的な動機やホスピタリティの資質が求められる“魂の労働”、すなわち弱者をケアする福祉分野の極度の脆弱さだ。
中国において国民の医療不信は極めて根深い。また保育施設や障害者支援施設・介護施設などの現場における利用者への虐待や非人道的な対応を報じるニュースは多く、その深刻さは日本の比ではない。
合理主義的な人が多い中国の社会では、医療倫理や保育・介護倫理が説得力を持たず、“魂の労働”への従事も他の労働と同じく賃金と労働内容のみから判断されてしまうことが多いため、人材の質が非常に悪くなるのだ。
加えて、人権意識が弱い中国の社会では、親族のような近しい関係にある相手を除いて、障害者や知的能力が衰えた老人のような弱者(場合によっては子どもも含む)に対して、人格の尊厳を認めなかったり差別意識を隠さなかったりする人もいる。もちろん中国人には優しい人も大勢いるが、残念なことに人権意識は社会的な地位とある程度は比例する。
社会的地位が高く知的水準も高いエリート層でも、人権意識を疑わせる事例はある。
昨年11月、中国ではヒト胚の遺伝子情報を書き換え、ゲノム編集をおこなった赤ん坊が誕生しているのだ。こちらは国際社会の強い批判を受けたこともあって、中国政府は研究の中止を求めたうえ研究者の処罰も発表したのだが、そもそもこうした研究が実際に赤ん坊が出産される段階まで進んだのも、中国の医療業界に存在する倫理規範の弱さと合理主義精神ゆえだろう。