実は、この映画は1967年にカリフォルニア州のカバリー高校で実際に行われた授業をもとにしており、やはりナチズムが何であるかを生徒に理解させることに苦労したロン・ジョーンズという歴史教師が行った実際の実験からヒントを得たものです。ちなみに、日本でも同様の実験が甲南大学の田野大輔氏によって行われ、反響を呼びました(内容は同著『ファシズムの教室』〔大月書店〕にまとめられています)。
『自由からの逃走』で有名な社会心理学者エーリッヒ・フロムの理論を証明するためのアメリカで大規模な意識調査に基づく1950年の「権威主義的パーソナリティ論」や、1963年の「ミルグラムの実験」(他人に電気ショックを与えるよう指示されると被験者はほぼ例外なくそれに従うというもの)などもそうですが、戦後に実現した民主主義社会にあっても、人々は状況に応じていとも簡単に権威主義的な振る舞いをするようになる――指導者に従順になる、自分と同じ属性を持たない者を排斥しようとする――という事実は、社会に強い衝撃を与えました。社会心理学者のジョナサン・ハイトは「ミツバチ・スイッチ」と呼びますが、人は集団で行動したがり、そして集団で行動するようになると、自分に大きな力が宿ったかのように知覚するとされます。それがまた権威主義がいかに普遍的で、偏在的かの説明でもあります。
『チリの闘い』――民主主義が崩壊するとき
さて、現実の権威主義体制はどのようにして生まれることになるのか。アメリカの政治学者エリカ・フランツの調査によると、1946年から2010年にかけて250の権威主義体制が世界で新たに生まれ、その約半分は権威主義体制から同じ権威主義体制への移行であり、他方でその3割弱は民主主義体制が倒されることで誕生したと数えています。なお、残りは国の独立をきっかけに誕生しています(『権威主義』白水社)。
このうち、民主主義から権威主義体制への移行は軍事クーデタであることが少なくありませんが、なかでも最も知られている事例は、1973年9月11日のチリクーデタです。この時、チリ軍は、選挙で選ばれたアジェンデ政権を武力でもって転覆、その後1989年までピノチェト軍事独裁政権が続くことになります。このクーデタの背後にはアメリカの支援があったことも知られており、2001年の同時多発テロと並んで「もうひとつの9.11」とも呼ばれる出来事です。
このクーデタの前後の展開を子細に追うのは、南米が誇るドキュメンタリー監督のパトリシオ・グスマン『チリの闘い 武器なき民衆の闘争』(1975-78)です。この作品は、クーデタに至るまでの経緯を「ブルジョワジーの叛乱」(1975年)、「クーデター」(1976年)、「民衆の力」(1978年)の三部作でもって、丹念に追ったドキュメンタリーで、目の前で生起しつつある事件を同時並行で記録した、政治作品の名作でもあります。
サルバドール・アジェンデは1970年に大統領に選出されますが、彼の政権は史上初めて選挙で生まれた社会主義政権として知られています。もっとも、映画が当時の映像資料を駆使して説明するように、その直後の議会選挙では右派政党が議会多数派となり、政権との対立が先鋭化していきます。企業の国有化と農地解放を進めるアジェンデ政権に対して、資本家や土地所有者は当然ながら反対の姿勢を崩さず、ここから労働者と資本階級との社会的対立も色濃いものになっていきます。経営者らは経済を混乱させようと、工場の操業や事業を止め、対する労働者たちは自主的な配給網や地区組織をつくってこれに対抗しようとします。簡単に言えば、国民から直接選出されたアジェンデ大統領を支持する労働者層と、議会で過半数の議席を得て資本家や教会の支援を受ける保守層とが、ストリート・レベルで対立することになったのです。
「アジェンデ、民衆があなたを守る」「もっと働いて大統領を守るのです」――こう叫んだり、主張したりしながらデモ行進をする人々が、文字通り画面から溢れ出るシーンは圧巻です。
政治体制が揺らぐとき、その趨勢を握るのは多くの場合、軍部です。軍部が中立を守っている限り、体制派と反体制派の均衡は崩れませんが、軍部が片方につくと、一気に両者の微妙なバランスは崩れることになるということは、最近のエジプトやタイの経験からも言えることです。『チリの闘い』でも、アジェンデ政権を危険視する軍の強硬派が幾度かクーデタ騒ぎを起こす経緯が描かれています。軍部は当初、政権が憲法を遵守している限りは事態に介入しないと表明していたものの、政権と議会との対立が長引き、街頭でも衝突が繰り返されるようになり、共産主義化を警戒するアメリカの後押しもあって、軍事独裁によって事態を平定することになりました。この顛末を追うことになる映画は、クーデタを記録した映像を流しながら「ラテンアメリカで最長の民主主義が終わった」と締め括られます。
この時代に誰しもが予期しなかったことですが、クーデタによって生まれたピノチェト軍事政権は16年にもわたって続くことになりました。政治的自由を徹底的に制約しながら(政権下で逮捕などされて行方不明になった国民は数千人にのぼるとされています)、他方ではノーベル経済学賞を授かるミルトン・フリードマンなどをブレーンとし、政権はその後先進国でも取り入れられる新自由主義的政策を徹底して「チリの奇跡」と呼ばれるほどの経済成長を実現していきます。現在では有名になったチリ産ワインも、この時に力を入れて産業として育成された成果のひとつです。こうして、政治的には権威主義、経済的には市場主義を徹底したチリは、アジェンダが象徴した階級闘争の時代に終止符を打ちました。
クーデタとほぼ並行して撮られたこのグスマン監督の作品づくりは、多くの苦労があったようです。資金と時間に限りがあるなかで、当局の目を欺いて民衆の姿を記録し、貴重なフィルムを現地から安全に運び出さなければならず、また作品で追悼が捧げられているように、カメラマン一人がその後失踪するという憂き目にもあっています。