クーデタによるアジェンデ政権崩壊という顛末を迎えるものの、この作品がどこか明るいものに見えるのは、おそらくその三部構成にあります。第一部は資本家に対して立ち上がる労働者に主眼が置かれ、第二部でクーデタまでの道のりが描かれ、そして第三部では、再び労働者たちに焦点が絞られ、彼らの汗水たらして働く姿が中心に据えられています。つまり、三部作を取ることで、物語は単線的ではなく循環的にもなり得ること、社会主義は再び可能であり得ることを示唆しているのです。フィルムに収められた労働者は最後にこう言い残します――「歩み続けましょう、ではまた同志!」と。
『サルバドールの朝』――未来を犠牲にする政治
チリのピノチェト政権とともに、権威主義体制が長く続いた国として知られているのはスペインです。スペインも、1931年に共和派が選挙で勝利したことで王政から共和制に移行しますが、左派勢力内のテロルもあり、軍部が体制転覆を試みたことがスペイン内戦へとつながっていきます。1939年にスペイン全土を掌握した軍人フランシス・フランコは、逝去する1975年まで総統としての地位に留まり、チリと同じように高度成長を実現するとともに、政治的には共和派や共産主義を徹底的に弾圧しました。
『サルバドールの朝』(マヌエル・ウエルガ監督、2006年)は、このフランコ体制末期に体制に挑んだ実在の青年の処刑までの足取りを描く作品です。
物語は、労働運動を支援するため、銀行強盗を繰り返してきたグループの指導者サルバドールが逮捕され、正義派の弁護士のアウラにそれまでの活動を告白する場面からはじまります。「独裁だけでなく全てを変えたい。階級のない社会を作り、本当の自由を得るんだ」――反政府活動を率先し、警察との銃撃戦を厭わないサルバドールは、理想肌の青年であると同時に、ロックと恋愛に夢中になる普通の大学生活を送る人物でもあります。映画は、彼が疑義の残る形式的な裁判の結果判決を受け、支援者たちの再審請求の努力もむなしく、死刑が執行されるまでを淡々と描いていきますが、他方では秩序を重んじる「旧体制」と変革を求める「青年」との対立をモチーフにしています。劇中、フランソワ・トリュフォー監督『大人は判ってくれない』やダスティン・ホフマン主演『卒業』など、青少年を主題にした作品が言及されているのがその証左です。
「息子の思想的偏向の原因は政府にある。理想と現実が隔たっているのだ。私の家庭の実態はスペインという大家族の実態の投影である」――これはサルバドールの共犯者の父親がしたためた声明文の言葉です。憶測なく映画を見れば、サルバドールはただ身勝手な強盗犯であり、彼らを捕まえようとする警察もただ単にその職務を果たしているだけであり、何ら政治的なメッセージが含まれているわけではないように見えます。しかし、よく見れば、権威主義体制が何であるかを雄弁に語るシーンが終盤に出てくることを見逃してはなりません。サルバドールと友情を育むことになった看守は、息子が失読症にかかっていることを告白したところ、「正しく教えれば勉強できるようになる」とサルバドールに諭されます。さらに「左手で書くのも直せるのか」と問われ、サルバドールは「じゃ左手で書けばいい」と返します。確かに、失読症だからといって学べないわけではないし、左利きだからといって文字が書けないわけではありません。サルバドールは、「正しさ」ではなく、「その人に合わせた発展」というものがあり得ることを、さりげなく看守に諭し、それがまた国が歩むべき道であることを主張したわけです。
権威主義体制とは個性と混乱を忌み嫌う政治のことでもあります。完全なる抑圧はないかもしれないが、完全な自由も認めず、人々の目に見えない形で、ソフトに人々を管理する家父長主義的な体制のことです。このような政治は、単なる言葉面の正義に頼って秩序を優先するだけで、人々の生を希求しようとすることの否定から成り立ちます。「不条理な復讐に嫌悪や怒りを覚える」とサルバドールは体制を告発しますが、それは何よりも「左手で書くこと」を認めない理不尽さへの告発でもありました。言い換えれば、それぞれが右手で書くことも、左手で書くことも許されるようになる社会こそが、民主的な社会であると言えるでしょう。
果たして私たちは、好きなほうの手で文字を書くことができるのか、つまり個々人の生を活かすことができているのか――それができないのであれば、権威主義体制へと転んでしまうのは容易いことであるように思えます。