「本質的に論争的な概念(Essentially contested concept)」という言葉が社会科学にあります。例えば、「正義」や「自由」、「平等」といった言葉は様々な場所で、様々な意味で用いられるがゆえに、意見の一致をみることのない、こうした論争的な概念の典型です。特に理念やスローガンが用いられる政治の世界は、論争的な概念に満ちています。今回のテーマである「保守主義」は、その最たるもののひとつでしょう。
「保守主義」という言葉は、19世紀に入って多く用いられるようになりましたが、これでイメージされるものも、人によって様々かもしれません。既存の秩序を頑なに守るような態度が想起されることもあれば、ナショナリズムや反共主義がイメージされることもあるでしょう。あるいは「新保守主義」という言葉からは、市場主義やタカ派政治と結びつけられることがあります。
近代の保守主義思想の源流は、アイルランド生まれのイギリスの思想家・政治家であるエドマンド・バークの書いた『フランス革命の省察』(1790年)に求められます。彼の名は、この書で同時進行形で進んでいたフランス革命が過去からの断絶を目指すものであり、人間の理性を過度に信用するものとして厳しく批判したことから、近代保守主義の祖として知られるようになりました。ただし、彼がイギリスからのアメリカ独立を支持したように、いかなる変化をも嫌ったわけではないことに注意しなければなりません。
「何らか変更の手段を持たない国家には、自らを保守する手段がない」とは、この『フランス革命の省察』での一節ですが、バークは人間の具体的な自由や権利を守るには、抽象的な概念に基づくのではなく、過去の歴史の中に蓄積されたものを活かさなければならないと説きます。保守主義が論争的な概念であることは事実だとしても、「保守主義(conservativism)」が「保守(conserve)」と無縁であることはできません。「変わらずに生き残るためには、変わらねばならない」とは、イタリア統一を前に没落する貴族社会に生きる保守的な公爵を描いたルキノ・ビスコンティ監督の映画『山猫』(1963年)の有名なセリフですが、これはバーク風に言い換えるのであれば、「良きものを守るために最善を尽くすのが保守主義」ということになります。
では、人々は何を守るべきと考えるのか、それを守るためにどのような行動をとるのか――こうした保守主義的な態度を3本の映画を通じて確認してみましょう。
『目撃』――国より大事なもの
アメリカ映画界で保守主義的な作品をもっとも得意とする監督は、いわずと知れたクリント・イーストウッドでしょう。初監督作品『恐怖のメロディ』(1971年)以来、主演を兼ねたものを含めてすでに40本を超えますが、『ミスティック・リバー』(2003年)や『グラン・トリノ』(2008年)といった作品あたりから、彼の保守的価値観が前面に打ち出されるようになります。そのイーストウッド流保守主義の端緒となる作品が『目撃(原題Absolute Power)』(1997年)です。
イーストウッド演じるルーサーはやり手の窃盗犯で、ある日、ワシントン郊外の大邸宅に見事忍び込むものの、中年の男女が突然部屋に入ってきたため、クローゼットに身を隠します。そこで彼が目撃したのは、痴情のもつれから、女性が殺される場面でした。しかも、男は時のアメリカ合衆国大統領、そして女性を射殺したのは身辺警護を担う大統領SPという思いも寄らない人物たち。ルーサーは、大統領の指紋がついた証拠品を奪ってその場から逃げ、国外への逃亡を図ります。
ところが、旅立とうとする空港で彼が目にしたのは、女性殺害の罪をルーサーになすりつけようとする大統領の記者会見でした。大統領が逢瀬を重ねていたのは彼の友人である実業家の妻であったことから、その友人を前に犯罪撲滅を堂々と誓う大統領の姿を目撃することになったわけです。「お前なんかから逃げてやるものか」――その瞬間から、ルーサーの行動は正義を実現すること、すなわち大統領の罪を暴くことに注がれることになります。
ところで、そのルーサーには、検事として働くケイトという愛情を注ぐ一人娘がいます(娘の健康を気遣って泥棒ならではの腕を駆使して彼女の家の冷蔵庫を満たすシーンは感動的です)。大統領のSP、さらに実業家が雇った暗殺者の両方から身を狙われることになったルーサーに巻き込まれて、彼女も怪我を負い、父親である彼は人知れず、彼女の身を守ることにもなります。