そんな時、パレスチナでボランティアをしていた彼の姪であるラナ(ミシェル・ウィリアムス)が帰国してきます。宣教師の父を持つ彼女は、そのつてを辿って、ロサンゼルスのスラム街の教会でスタッフとして働くようになります。その教会の炊き出しに来ていた人物の一人がポールの目を付けていた人物であることから、ストーリーは急展開していきます。彼が路上で何らかの人物に射殺され、ポールはこれをテロ集団の内輪もめと確信、ラナとともに、彼の遺体を唯一の肉親のいる町へと運び、真実を突き止めようとします。ここからが、ヴェンダース監督ならではのロード・ムービーの始まりです。
もともとパラノイア気味のポール。化学薬品を大量殺人兵器と思い込み、その薬品会社の段ボールを使う引っ越し屋をテロリストとみなして、アジトと定めた家に侵入しますが、そこにいたのは、寝たきりの老人でした。所詮、彼は自らの妄想に振り回されたにすぎません。人生の目的を失ったポールは「俺は何を追っていたのか」と失意の底に沈みます。
そんなポールをラナは温かく見守り、声をかけます。ポールの妹である母親との関係、彼の抱えたトラウマ、パレスチナでの出来事、そして9.11の経験――まさにその日、パレスチナの人々が歓声を上げたのを見たというラナに、ポールはいいます。「あの日3000人以上の市民が殺された。それも罪のない人々ばかりだ」。そんな彼の言葉に、彼女はこう返します。「私はその人たちの声を聴きたいの。報復で人が殺されるのを望まないはず」。こうして2人は、空虚な場所となったツインタワーの跡地にともに立ちます。
この映画が描くのは、2人の人物を通じた2つの感情の対照性――自家撞着と慈しみ、猜疑心と愛、敵意と祈り、執着と許し――であり、そして、過去のアメリカを体現するポールと、未来を体現するラナの交流を通じて、今のアメリカを映し出そうとする試みでもあります。ヴェンダース監督は、そうした豊穣な会話の中に「ランド・オブ・プレンティ」、すなわち「豊かな国」を見出そうとしているかのようにも見えます。
自分たちにとって脅威となる相手と対峙した時、単なる憎しみや敵意、恐怖に染まるのではなく、こうした「豊かな国」を築くことができるのかどうか。ウクライナ戦争を機に、そのことこそが問われているように思います。