もうひとつは、テロの原因はアメリカが中東に介入した結果であり、自ら招いた災いであることが描かれていることにあります。周知のように、9.11を起こしたアル・カイーダと首謀者ビンラディンは、もとを辿ればソ連のアフガン侵攻に際してアメリカが支援したタリバーンを出自としていました。この映画でも、NYで連続テロが起きた原因は、アメリカの中東への介入にあることが徐々に明らかになります。映画は1998年に公開されたものですが、それまでのアメリカをつぶさに見ていれば、こうしたことが理論的に起こりうるということを予期した監督と脚本家(ピューリッツァー賞受賞者のロレンス・ライト)の明晰さは見事としかいいようがありません。
ただし、現実と大きく違うのは、最後にデブロー将軍が拷問殺人の罪状でハバードに逮捕されることかもしれません。ハバードは逮捕時に将軍にこういい渡します。「あんたには黙秘の権利がある。裁判を受ける権利もある。拷問されず殺されぬ権利もある。これはタリク(テロリスト)から奪った権利であり、先人が戦いとった権利だ」。
ここで我々も自身に問うべきでしょう。敵対する者を否定するために、その相手と同じ手段を用いることが倫理的に許されるのかどうか、それはもしかしたら相手の思うつぼではないのか、ということを。
「狂気」を退治するもの――『ダークナイト』
NYを「ゴッサム・シティ」と置き換えて、バットマンの活躍を描くのはクリストファー・ノーランによるトリロジー(三部作)の二作目、『ダークナイト』(2008年)です。ティム・バートン監督のバットマン・シリーズが同氏特有の幻想的な色彩のものだったとすれば、ノーランのバットマン・トリロジーは、最新作『ザ・バットマン』(マット・リーブス監督、2022年)にもつながる、リアリスティックかつダーク・ヒーロー色の強いものです。
この作品の見どころはノーランならではの大仕掛けのアクションに留まらず、やはりその後の『ジョーカー』(トッド・フィリップス監督、2019年)をもインスパイアしたであろう、ヒース・レジャー演じる、妙に饒舌なジョーカーの見せる狂気です(残念なことに本作は彼の遺作となりました)。
そのジョーカーは、ゴッサム・シティを牛耳るギャング団を脅して味方につけ、数々のテロを仕掛けることで、バットマンにその正体を明かすよう迫ります。ノーランのバットマン・トリロジーのライトモチーフは『マーシャル・ロー』でも提起した、倫理的に煩悶するヒーロー像を描いていることです。果たして、自らの身を明かさないままで超法規的に悪事を糺(ただ)し続けるべきなのか、それとも既存の司法を信じて飽くまでも秩序を回復すべきなのか――初恋の相手であるレイチェルとの関係もあって、バットマンことブルース・ウェインは煩悶し続けます。
バットマンの苦悩を見透かすジョーカーは、彼を挑発します――「お前は俺と同じフリークだ。今は必要でも、いらなくなったら世間からつまはじきされる。世間のモラルや倫理なんて善人のたわごとだ。足元が脅かされたら、たちまちエゴむき出し。いざとなったらいかに文明人という連中が争うかみせつけてやる」。ジョーカーを発見するため、違法な手段を用いることからもわかるように、ここでバットマンは、法の埒外に存在している点ではジョーカーと共通した存在であることが強調されます。
恐怖や憎しみ、復讐心――これらの感情がバットマン誕生の源泉となっていることは、一作目『バットマン・ビギンズ』で描かれています――は、正義や慈しみという感情よりも優位にあるはずだ。ジョーカーはバットマンが街の秩序回復を託したデント地方検事をその道に引き込むことで歩を進めます。
「小さな無秩序で体制をひっくり返す。すると世の中は大混乱に陥る」「その混乱を引き起こすのは恐怖だ」――ジョーカーは恐怖や憎しみこそが世界を突き動かす原動力であることを証明しようと、巧妙な罠を仕掛けます。それが、ゴッサム・シティから退避する2隻のフェリーに爆弾を仕掛け、乗客に互いの船を爆破する起爆装置を渡すことでした。他方は一般市民が、一方は囚人が乗せられたフェリーで、いずれかが時間内に相手を爆破しない限り、二隻ともに爆破されるという「囚人のジレンマ」状態を作り出し、恐怖こそが社会の法則であることを証明しようとしたわけです。
果たしてどうなったか――市民も囚人も、起爆装置を起動しないままに終わります。バットマンはジョーカーに高らかに宣言します。「何を証明したいんだ。誰しもが心の奥底は醜いということか」「ゴッサムの市民は、彼らは良心を信じる善意の人々であるということをお前に示したんだ」。
法の秩序の外にいながら、憎しみを原動力として秩序を保とうとするバットマンは完璧な存在たり得ません。その証拠に、彼はその存在によって多くのものを喪失していきます。作中、デントが「古代ローマでは民主主義より一人の男に運命をかけたんだ」というセリフを吐くシーンがありますが、ノーラン監督は明確に人々の善意によって駆動する民主主義の可能性をメッセージとして発します。
ここで私たちは、再び自身に問わないとなりません。すなわち、恐怖や憎しみに突き動かされる内なるジョーカーに抗い、そしてどこからかやってくるヒーロー、つまり内なるバットマンを待つのではなく、「善意の人々」であり続けることができるのかどうか、と。
「豊かさ」とは何か――『ランド・オブ・プレンティ』
猜疑(さいぎ)心と敵対心を募らせる滑稽さを描くのは、巨匠ヴィム・ヴェンダース監督の『ランド・オブ・プレンティ』(2004年)です。この映画はまた、ベトナム戦争の記憶とパレスチナ紛争の経験を9.11と結びつける作品でもあります。
時は9.11からちょうど2年が経った2003年、主人公はベトナム戦争で使用された枯葉剤(通称「オレンジ」)の後遺症を患い、さらに9.11によるPTSDに苦しむ愛国主義者であるポールという中年男性です。彼は、新たなテロを防ごうと、改造したバンに監視カメラを据え付け、怪しいと目を付けたアラブ系市民の会話をマイクで盗聴するなど、日夜、素人ながらの監視活動に勤しんでいます。