1983年から参議院選挙制度改革として導入された比例代表制は、候補者が10人いれば名簿を提出できるとしたためミニ政党を輩出した。しかし、供託金額の引き上げなど立候補条件を厳しくしたことから次第にミニ政党は減少傾向にある。83年参議院選挙では「二院クラブ」「サラリーマン新党」「福祉党」が当選者を出したが、95年は二院クラブだけ、98年、2001年ともミニ政党の当選はゼロだった。一方、政界再編成に特有な動きとして離党によるミニ政党が相次いで生まれ、消滅していった。1994年4月につくられた「自由党」(党首柿沢弘治)、「新党・みらい」(党首鹿野道彦)と衆議院内会派「高志会」(代表海部俊樹)、同「改革の会」(代表西岡武夫)は94年12月発足の新進党に合流した。95年末には「新党リーグ」(代表海江田万里)、「自由連合」(代表徳田虎雄)が、96年3月には社会党(現・社民党)から離党した最左派議員による「新社会党」(代表矢田部理)が結成された。98年10月には参議院議員中村敦夫が新党「国民会議」を旗揚げした。参議院の無所属議員は同年12月に「参議院クラブ」(代表椎名素夫)を結成した後、99年12月に「無所属の会」(代表椎名素夫)をつくった。93年6月結成された「新党さきがけ」は98年10月解散し、「さきがけ」と名称変更し2000年総選挙で武村正義らが落選したため、総選挙後に中村敦夫を代表とした。さらに02年1月「みどりの会議」と改称した。1998年1月に結成された「自由党」(党首小沢一郎)は2003年9月、民主党に合流した。00年4月、自由党から分党した「保守党」は、民主党からの離党組を加えて02年12月、保守新党に衣替え。03年11月総選挙敗北で自由民主党(自民党)に合流した。05年8月の衆議院解散後、郵政民営化法案に反対した前議員らが「国民新党」(代表綿貫民輔)と「新党日本」(代表田中康夫)を結成した。同年9月総選挙で「新党大地」(代表鈴木宗男)が当選者1人を出した。07年参議院選挙では国民新党が2議席、新党日本が1議席を得た。自民党の渡辺喜美元金融担当相が09年1月離党、同年8月8日「みんなの党」を結成、8月総選挙で5議席を獲得し、国民新党の3議席を上回った。10年7月の参議院選挙を前に民主党・自民党の二大政党に次ぐ「第三極」を目指して新党の旗揚げが相次いだ。郵政民営化に反対して自民党を離党後、無所属として活動していた平沼赳夫と自民党を離党した与謝野馨が同年4月10日、衆参議員5人による新党を結成し「たちあがれ日本」(代表平沼赳夫)と命名した。山田宏前杉並区長と中田宏前横浜市長は同月18日、「日本創新党」(代表山田宏)を結成。橋下徹大阪府知事を中心にした「ローカルパーティー『大阪維新の会』」(代表橋下徹)が同月19日発足した。2つの“首長新党”には国会議員が参加せず、政党の要件を満たさないため当面は政治団体として届け出た。さらに舛添要一元厚生労働相が自民党を離党して同月23日、国会議員6人からなる「新党改革」(代表舛添要一)を立ち上げた。政党助成法による政党交付金を継続して受け取るため、舛添は「改革クラブ」(代表渡辺秀央)に入党した上で党名を変更する形を取ったが、改革クラブに所属していた中村喜四郎ら2人は新党に加わらなかった。7月参議院選挙ではみんなの党が10議席(比例7、選挙区3)、たちあがれ日本と新党改革は比例のみ各1議席、国民新党と日本創新党は獲得議席ゼロだった。与党は参議院選挙の結果、参議院での多数を失ったため、ミニ政党にも食指を伸ばし、同年12月に菅直人首相がたちあがれ日本の与謝野共同代表を通じて連立参加を呼びかけたが、たちあがれ日本の党内論議の結果、参加は見送られた。11年1月の内閣改造で与謝野はたちあがれ日本を離党し入閣した。野田政権が消費税増税を打ち出したことに反発して小沢元代表に近い議員9人が離党し、11年12月30日付で「新党きづな」を結党。新党大地の鈴木宗男代表は12年1月6日、先に民主党を除籍になった議員を含めて「新党大地・真民主」の設立を発表した。(→「地域政党(ローカル・パーティー)」「ミニ政党の動き」)