「友達より早くエッチをしたいけど」とか「ちょっぴり恐いけどバージンじゃつまらない」「おばんになっちゃうその前に おいしいハートを食べて」(秋元康作詞『セーラー服を脱がさないで』)なんて歌詞は当時の小学生にも刷り込まれ、処女=悪、友達より先に性行為をする=善、という図式として焼きついた。
今思うと、小学生から「ヤラハタ」に怯えるような中で育った自分がかわいそうだと思う。小学生なんだから、もっと鬼ごっことか影踏みとか缶蹴りとかかくれんぼとか、あとスーパーマリオとかに夢中になって子どもらしく生きていればよかったのだ。
しかし、そうは問屋が卸さないのも昭和の学校。
私の通う小学校の担任教師は今から思うと完全アウトなセクハラ教師で、女子生徒の胸は触るわプール授業の前は「女子が楽しみだ」と公言するわという、今だったら週刊誌や新聞に登場するような人物だったのである。そんなセクハラのたびに女子生徒たちからは「ギャーッ!!」という悲鳴が上がるものの、当人はそれを「子どもたちが盛り上がり、喜んでいる」と捉えるような感覚の持ち主。そしてそんなセクハラを知りながら問題視する教師は誰一人いなかったのだから、本当に、昭和の学校は無法地帯だったとつくづく思う。
そんな小学生時代を過ごしたわけだが、中高生の頃はと言えば、世の中はバブルの絶頂。
当時の日本は「若者たるものクリスマスには高級ホテルでセックスしなければならない」「花金(『花の金曜日』という死語)やサタデーナイトはフィーバーしなければならない」と法律で義務づけられているような社会。高校卒業まで北海道の片田舎で過ごした私も、しっかりその影響を潜在意識下に受けていた。別にディスコでフィーバーなどしていないが(そもそも地元にディスコなどなく、ジャスコすらなかった)、「若者たるものセックスしなければならない」という圧は常に感じていた。
一方、当時の男性にかかる圧も凄まじかったと思う。「ヤラハタに人権なし」だけでなく、「経験人数が多い者勝ち」という露骨な「数の競争」の中、全然そういうキャラじゃないのに苦行のようにナンパを繰り返す人もいた。また、私は高校卒業と同時に上京したのだが、上京後に出会った男性の中には、「渋谷に来たんだからセックスしなければ帰れない」と自分自身にノルマを課し、一人「帰れま10」のようなことを何十年も先取り開催している人もした。自縄自縛な感じが悲惨すぎて、思わず遠くから合掌したくなった。
そういう意味では、令和の現在は、なんと生きやすいのだろうと思う。別に恋愛しなくてもセックスしなくてもいい。というか、少なくとも、昭和のような「全員強制参加」の「圧」はない。恋愛やセックスに前向きな人もいれば、そうでない人もいるということが当たり前に許容されている。
童貞・処女のまま20歳を迎えるプレッシャーも以前よりは軽減されていそうだし、それどころか「彼氏彼女いるの?」なんてのがセクハラになりうる時代だ。性的指向もそれぞれということがある程度認識されているので、人のセックスに土足で踏み込む文化が一掃された感がある。
それに比べて、平成初期に10代後半から20代を過ごした私は、なんと「ありもしない欲望」を植えつけられていたのだろう……とちょっと怖くなる。
若かりし日を振り返れば、お互い少しも好きじゃないし、なんならやりたくすらないのに、「若者たるもの」的な時代の空気に流されるようにして致した経験が少なくない数、思い浮かぶ。
今思うと、当時のそんな行為の背景にあったのは恋愛感情よりも欲望よりも、「みんなやってるから」という義務感がもっとも大きかった気さえするのだ。
翻って、現在。「若者の恋愛離れ」などと言われて久しいが、その圧が軽減されたのであれば、それは手放しで喜ばしいことだ。
しかし、そんな「圧」や「呪い」に苦しむ人々は今もいる。
特に数年前、あるおじさん雑誌がやたらと「死ぬまでセックス」みたいな特集を組んでいた頃には、「死ぬまで現役でいたい」「死ぬまでに20代を抱きたい」といった見出しを見るたびに、いたたまれない気持ちになった。
同時に、中高年になっても「ヤラハタに怯える昭和の中学生」と同じような呪いに翻弄される日本人男性って、女性とは別の種類の虐待を受けているようだな、と遠い目になったことを覚えている。
もちろん、令和の若者の中にも「若者たるもの」的な呪いに苦しむ人はいるだろう。自分の欲望が植え付けられたものなのかそうでないのかに悩むこともあるだろう。
だけど、「みんながそうだから」とかなら、一歩立ち止まってみることをオススメしたい。
以上、昭和生まれが久々にエロコンテンツを目にして動揺し、いろいろ思ったことを書き散らしてみた。