が、「写真に写った子どもは泣いてるぞ」「“同和利権”とか書いてるじゃないか!」と喝破される。
編集者は手をついて謝罪し、責任を取って辞職したという。
本書にて、この企画を立てた編集者は当時の『BUBKA』界隈について、〈面白ければいいと思ってましたね。読んだ奴がビビってくれたら〉 〈雑誌に取り憑かれていました。雑誌を作るためなら人を殺してもいいと本気で思っていました〉 と語っている。
「ヤバいこと」をやるほど伸びていく売り上げ。その中で、ある種の狂気の中にいたのだろうか。
注目したいのは、それほどに「暴走」が可能だった当時の編集部内の空気だ。本書には、〈コアマガジンの編集者に人権はなかった〉 という記述がある。
読み進めていけば、その通りとしか言いようがないエピソードのオンパレード。
例えば新人編集者に強いられたこととしてあげられているのは、〈前期高齢者とセックス、豚の頭でサッカー、スカトロといった体験取材〉。
コアマガジンにはいわゆる「エロ本」も多く、撮影の際は編集者がその場で「男優仕事」をするのも当たり前という空気があったようだ。いわゆる「ハメ撮り」などである。
そんな中、著者は当時を振り返り、〈自分も加害者ではなかったか〉 と書いている。
読んでいると加害性は非常に高い。が、編集部自体が狂気の中にいるようで、誰が被害者で誰が加害者なのか、また全員が共犯者のようでもありその判断は難しい。
なぜなら、本書には自らの加害性を振り返る著者自身の「筆下ろし」についてのシーンも紹介されているからだ。
勉強の意味も込めて「マニア撮影」に連れて行かれた際、「地方から上京した人妻」とカメラマンや先輩編集者の前で性行為をするのだ。もちろんそれは撮影されている。以来、〈お声がかかれば編集部に関係なく顔を出し、パンツを脱ぐようになった〉という著者。
いったいどういう職場? と思うのだが、このような描写を読むほどに、「環境セクハラ」なんて言葉が裸足で逃げ出すような感覚に気が遠くなってくる。
っていうか、見方を変えればこれって重大な「労働問題」ではないのか。編集の仕事で会社に入ったのに、「業務の一環」として性行為を強要されたとしたら、それは大問題だ。違法性も問われるのではないだろうか? ちなみにコアマガジンに労働組合などはなかったのだろうか。
しかし、成人誌を制作するホモソーシャルな空気の中、「自分は性行為をしたくない」などとても言えないというのも想像できる。なぜなら、90年代〜00年代の日本には、「男はいつでも性行為をしたいもの」という昭和的価値観が濃厚に漂っていたからである。
その上、ホモソーシャルでは自らを「被害者」と規定することがもっともタブー視されるのではないか。ちなみに90年代サブカルの文脈の中には、「どんな女ともヤレる」ことを男性が得意げに語るような文化も確実にあった。でも、それで編集者が性病にかかったりしたら? 労災は適用されるのだろうか? というか、そういうことまですべてネタにされそうだが……。
さて、そんなコアマガジンからは多くの逮捕者が出る。
雑誌のモザイク処理が薄いなどの理由で猥褻図画販売容疑で逮捕された者もいれば、暴走族の取材で「暴走行為を煽った」として編集者とライターが逮捕。また、大麻所持で逮捕された者もいる。
本書では、2004年に起きた「バッキー事件」にも触れられている。「子宮破壊」などを謳う暴力的なAV撮影の現場で、女優が人工肛門になるほどの重体となった事件だ。撮影現場にいた男は全員逮捕され、その中にはコアマガジンの編集者もいたという。
00年代はじめ頃からサブカルへの興味が失われていたことは前述したが、この事件を機に、決定的に心が離れた。
「悪ノリ」の行き着く果て。そこには女性の身体を破壊し尽くすような、おぞましい暴力が待っていた。
先に、『BUBKA』でやっていたのは「炎上系YouTuberがやるようなこと」という著者の言葉を紹介した。
しかし、決定的に違うことがある。それは「顔と名前を出しているか」だ。
多くの炎上系YouTuberは、顔も名前も晒している。だからこそ社会的な制裁を受けるし、責任は常に問われる。しかし、編集者の「責任」は、滅多なことがないと問われない。もちろん逮捕などはあるにしても、読者には、雑誌を作っている人の顔は見えない。
デビュー以来25年、一貫して顔と名前を晒している私からすると、それは随分「ずるい」ことに思えるのだ。
ちなみに私は数年前、90年代に「鬼畜系サブカル」を読者として楽しんでいたことを総括するような文章を書いたのだが、それを発表して以来、「こいつもああいうひどい雑誌作ってたんですよ」といった感じで編集者を紹介されることがある。
すると大抵その編集者は「いや違うんです! 会社に言われてやってただけなんです!」「仕事だから仕方なくなんです!」などと焦って弁解するのだが、その姿を初めて見た時、心底驚いたことを覚えている。
フリーランスで顔と名前を出してやっている私には、そういう「言い分」や「言い訳」はありえないものだったからだ。自分が手がけた仕事には、全て自分の責任が発生する。しかし、この人たちは違うのか。
そう思った瞬間、「サラリーマン怖え……」と思った。こりゃ、原発事故が起こっても誰も責任取らないわけだ、とも。
同時に思い出したのは、「凡庸な悪」という言葉だ。