この言葉は、ユダヤ人哲学者のハンナ・アーレントのもの。600万人ものユダヤ人を強制収容所へ移送させ、ナチスによるホロコーストの中心的役割をになったアドルフ・アイヒマン裁判を記録した著作の中に出てくる言葉である。
凡人が思考を停止し、上からの命令に従うことで引き起こされる悪、ということらしい(近年、これに異議を唱える言説があることは承知しているがあえて「凡庸な悪」という言葉を用いた)。
そういう意味では、この『凡夫』というタイトルそのものがはからずも何かを言い当てるものとなっていないだろうか。
最後に。
私はこの本で書かれていることを裁くつもりはない。そんな資格などそもそもない。
また、著者は本書を書くことで〈返り血を浴びるだけでは済まないだろう〉 とも書いており、相当の覚悟を持っていることはわかる。
ただ、それとは別に、悪ノリ文化を作った人たち(ひとつの出版社に限らずあのブームに関わった人たち)が今に至るまで何も問われていない上、どこの誰かもわからない匿名性の中にいることが、現在のヘイトや差別へのハードルを低くしている面は確実にあると思う。
もちろん、前述したように部落企画での辞職などはあったが、当時の読者はそのことを知っていただろうか。また、現在だったらあの企画をした者には、とてつもない社会的制裁が科されるのではないか。
だからこそ、サブカル寄りだったアラフィフの中には、「90年代とか2000年代、雑誌であんだけひどいことやってたけど誰も罪に問われてないよな」という思いはうっすらと共有されている。
その感覚が、ネットの時代になって差別を容認する感覚につながっていないとは言い切れないと思うのだ。なぜなら、私たちは「差別がエンタメになる」光景をあの時代、見すぎている。
悪ノリはエスカレートする。そして時に、人の命を奪う。
この本に記録されていることは、決して過去の、一部の特殊な界隈のことではない。