本書を読めばわかるが、羽田氏には「メガバンクにつとめる友人」がいる。この友人の存在がキーパーソン的に描かれているのだが、私の周りには、投資に詳しい人やメガバンクにつとめる人、その辺の情報を持っていそうな人は見事に一人もいない。
かろうじているのは「親の相続で得たお金を投資して全財産を失った人」や「十数年前、FXをやっていると自慢げに吹聴していたものの今は行方がわからないフリーター」くらい。
「お金について有益な情報をくれる人間関係」は、あるところにはある。そしてないところにはこれっぽっちもない。これがいわゆる「階層」とかの差なのだろう。
さらに付け加えると、「心臓に悪そう」というのも大きい。
羽田氏の大損描写を読むだけでも心拍数が増加、血圧は上昇するなど身体に重大な負担がかかるのを感じた。これが、自分の身銭だったら。脳の血管なんてあっという間にブチ切れるのではないだろうか。
しかも、相場的なものは毎日チェックするようではないか。そこに世界情勢とかが関わってきて、突然「暴落」とかがあるのだから一時たりとも安心できない。
さらには「世界情勢」と「自分の身銭」が関わっていると思うと、「どうしたら世界が良くなるか」「気候変動の問題や世界規模の格差がなくなるか」とかより、「どうやったらいろいろな情勢を利用して自分が儲けられるか」を考えてしまいそうだ。
なんかそれって、やっちゃっていいの? こうして考えただけで罪悪感めいたものが芽生える人には向いてない? っていうか、そういうのがガチの投資家目線ってこと?
そういえば東日本大震災の直後、震災後のゴタゴタを利用して投資で大儲けしたという話をしている人に出会ったことがあり(知り合いではなく、なんかの集まりでのこと)、「人の不幸を利用して儲けた俺様すげー」って感じのその人に一瞬殺意が芽生えたのだが、投資をする人はみんながみんな、そんな悪代官マインドってわけじゃないんだよね?
ちなみに最近は「社会的投資」なんて言葉も聞くが(投資と課題解決のセット的な何かっぽい)、それを説明する言葉からしてSRIだのESGだの意味不明なアルファベットだらけで何がなんだかさっぱりだ。
ということで、この先も投資はしないだろうという結論に落ち着いたのだが、改めて思ったのは、「お金の話って面白い」ということだ。
しかも、赤の他人のお金の話。どういう人がどういうものにどれだけお金を使っているかを知るだけで面白いし、「お金との向き合い方」は、その人の価値観などを恐ろしいほど剥き出しにする。
そんな本書を読んで、私は「自分にお金を使う」ことに後ろめたさがあることに改めて、気付かされた。貧乏フリーター時代があったからなのだろうか。あるいは「自分にそんな価値はない」と刷り込まれているということがあるのだろうか。
よって、羽田氏が当たり前のように「理想の家」や「いい家具」を求める描写に新鮮な驚きを得た。そうか、人ってもっと自由なんだ、欲しいものを欲しがっていいのだと。
「お金」との付き合い方を考えるだけでなく、自分と向き合うことにもなれた一冊。投資をしている人が読んだら、また全然違う感想を持つのだろう。