ちなみに義母には16年あたりから「異変」があったようなのだが、24年時点で要介護3、義父は要支援1。
ちなみに村井さんには2人の子どもがいる。仕事と子育てだけでも大変なのに、そこに突如始まった「介護」という一大プロジェクト。義母の怒りの発作に驚いたり、運転免許証返納に激しい抵抗に遭ったり、物盗られ妄想と嫉妬妄想にメンタルを削られたりと大忙しなのだが、義父の描写にもえぐられる。例えばこのような記述だ。
〈義父は、元気だった頃の完璧な義母を求めている。家事も、自分のサポートも、家計の管理も、すべて完璧にやり遂げていた、あの頃の義母を求めている。きれいに洗われ、干され、畳まれた下着類やパンツが欲しいだけのことだ。そして、完璧ではなくなった義母に腹を立てているのだ〉
これを読んだ時、ふと、うちの父、自分の靴下や持病の薬がどこにあるか知っているのだろうか? という疑問が浮かんだ。そう思っただけで、どっと疲れた。しかも村井さんの義父は、暗い。その暗さの描写が本当に容赦なくて読んでいるこっちの気が滅入るほどに、暗い。しかも寝苦しい真夏の夜みたいに湿度まで高い。
さて、そんな村井さんは介護サービスを熟知して活用している。義母はデイサービスを週5日利用し、家事の支援をするヘルパー訪問は週3回。服薬管理や健康管理のための訪問看護師は週1回来てくれる。が。
〈これほど介護サービスを利用したとしても、私と夫が週末に訪問し、様々な支援をしなければ生活は回らない〉
いくら情報を知っていても、制度をフル活用したとしても、それでも「子世代にとって仕事は山積み」だというのだ。
読み終えて、「情報知ってるから完璧」と思っていた自分を恥じた。
そして2冊を読んで思ったのは、ある意味「女性にケアされる」ことを当たり前だと思い、同時に炊飯器で米も炊けないような「昭和の父親」とその娘が介護の場面でぶつかりあうというのは日本中で起きているだろうということだ。それを「高齢なのだから」と耐えるのか、意見を言うのか。
一方、我が家の母親はどうかと言えば、元気な今だって東京に遊びに来たりすれば田舎モード全開。「知らない人に話しかける」「赤ちゃんや子どもがいたらやたらと構う」「過疎地に住んでいるので人混みを歩くと人にぶつかりまくる」など、その作法の違いに独特の疲労感に包まれる。元気な今でさえだ。
親の老いと向き合うということは、そういうディテール一つひとつと向き合うことで、制度や支援ではカバーできないところにこそ、大変さが詰まっているということを知れたのだった。
ということで、何かいろいろと疑似体験したような2冊。とにかくジェーンさんの父も村井さんの義父も、うちの父にすごく似ている。
介護認定も重要だが、国は「家事ができない高齢男性」の強化合宿とかをやってくれないだろうか。
すべての男性が最低限の生活力とセルフケア能力をつけること。それが喫緊の課題だ。
最後に。親はいいとして、子どものいない私の老後はどうなる? という課題も突きつけられているが、こちらは絶賛先送り中だ。