少し前、たまに行くスーパーで店員に怒鳴り散らしている男性をよく見かけた。
レジに並んでいる時は大人しいのに、自分の番が来て店員さんが商品をピッとし始めると舌打ちするなど苛立ちを隠さず、足を踏み鳴らすなどして「遅い」とアピール。店員さんが動揺して失敗(商品を落としたり)すると、「カーン!」とゴングが鳴ったかのように攻撃が始まる。
「使えねぇ!」
「こんなに仕事トロいなんて信じらんねぇ!」
「俺が上司だったら今すぐクビだクビ!」
スーパー中に響き渡るような怒号。
最初に見た時は震え上がるほどに恐ろしく、その場から逃げ出したくなった。
しかし、何度も見ているうちに「またか」と思うようになってきた。そのうち、その人はわざわざ「キレるため」にこのスーパーに来ているような気がしてきた。やられる方はたまったものではないが、罵倒も「一連の儀式」のようで、周りの空気も「またやってる」という呆れた感じになってきた。
印象に残っているのは、その男性は他の客には決して迷惑をかけなかったこと。時には「客を代表してみんなのために言ってやってるんだ」という使命感すら垣間見えた。また、男性がキレるのは女性店員に対してだけで、男性店員がいるレジには決して並ばなかったことも覚えている。
そうしてある時期から、そのスーパーで男性の姿を見かけることはなくなった。
もしかしたら、出禁になったのかも。
そう思うと、ほっとした。「カスタマーハラスメント」(客からの暴言や不当な要求などの迷惑行為)という言葉が注目され、あらゆる店舗やバス・タクシー車内にも注意書きがなされる時代である。あんなやり方、令和に容認されるはずないのだ。
もう怒鳴り声を聞かなくてもいい上、店員さんのメンタルを心配しなくてもいい……。
解放された気分になりつつ、ふと「あの男性は、どこで買い物するのだろう?」という思いが頭に浮かんだ。
そうして、カスハラは自分で自分の首を絞める行為なのだと改めて気がついた。やめたくてもやめられないのであれば、依存症と近いところがあるのだろう。思えば怒鳴っている男性は、何かに取り憑かれたかのような、そして独特の脳汁が出ている人特有の恍惚の表情すら浮かべていた。
もうひとつ、思ったことがある。
それは、あのスラスラと繰り出される暴言は、男性が普段言われている言葉なのかもしれないということだ。使えない、遅い、クビだというお決まりの、だけど人を「無能」と断じ深く傷つけるフレーズ。
もしかしたら、スーパーでカスハラ加害をしていたあの人は、職場では被害者なのかもしれない。その屈辱が、歪んだ形で爆発していたのかもしれない。それで自尊心のようなものを取り戻そうとしていたのかもしれない。
だけどやっぱり、やっちゃいけないことだ。
カスハラはもちろん、パワハラなどの言葉が定着することによって、以前と比べれば表向きの暴力は随分減った令和7年。
私は昭和生まれの50歳だが、思えば私たちの世代くらいまでは幼少期から暴力にまみれて育ってきたと言える。
多くの家庭では「しつけ」と称した体罰が当たり前。それだけでなく、見ず知らずの大人から「うるさい!」と怒鳴られる(場合によっては叩かれる)なんて光景も普通にあった。
小学校に上がると教師からの体罰は日常的なものとなり、中学に入るとさらにエスカレート。ヤンキーがギリギリ元気だった時代ゆえ、とにかく「ヤンキーの芽は早くつめ」とばかりにほんの少しの校則違反でも教師は生徒をボコボコにした。暴力が蔓延する場所ではそれに対するハードルは下がる。結果、生徒間では「殺し合い?」と思うほどの殴り合いが日常化していた。多い時では週に一度は男子生徒の誰かが血まみれになっているのを目撃する日々。今思うとありえないが、それが昭和生まれの日常だった。
学校の外に目をやれば、ヤクザ映画やヤンキー映画が大流行。「男らしさ」「モテ」と暴力はもはやセットで、DVは「痴話喧嘩」と誰も相手にしなかった時代だ。セクハラという概念も、子供に性的なものを見せることは問題という意識もなかったことからテレビでは性的なシーンが堂々と流され、子どもたちが当たり前にそれを目にするという環境にあった。そうして今であれば「性暴力」と呼ばれることも、「いたずら」と言われスルーされていた。
しかし、野放しにされていた暴力は、私たちのどこかに今も傷を残している。
例えば体罰や暴言は、子どもの脳に悪影響を及ぼすことは広く知られるようになった。特に体罰は前頭前野の萎縮につながるという。
そんなことが知られるようになり、以前より厳しい目が向けられるようになった暴力。
また、ハラスメントの概念が広まったり、「心理的安全性」という言葉が注目されるようになったことで人の「傷つき」に敏感になる人は昔よりずっと増えた。
一方、職場での会話をICレコーダーで録音することなども「自衛」として普通のこととなり、またスマホとSNSの普及によって暴力は記録され可視化されるものになった。どうせ誰も見ていないだろうと思って好き勝手していたら、それが撮影されて拡散され、人生が終了するリスクを誰もが負うようになったのだ。
よって表向きには「安全」になったように見える令和。
が、果たしてそうだろうか? 暴力や攻撃は地下に潜り、より見えづらい、わかりづらい形となって私たちをじわじわと追い詰めているのではないだろうか?
最近、そんなふうに思い至る漫画と出会った。
それは『被害者姫 彼女は受動的攻撃をしている』(竹書房、2025年)。
著者の水谷緑さんの漫画はこれまでも何冊か読んだことがある。特にヤングケアラーの実態を綿密な取材に基づいて描いた『私だけ年を取っているみたいだ。』(文藝春秋、2022年)は大きな話題となったので知っている人も多いだろう。
そんな水谷さんが今作品で取り組んだのは、サブタイトルにもある「受動的攻撃」。