再交渉必至のTPP協定
バラク・オバマ政権は環太平洋経済連携協定(TPP)反対一色の大統領選挙が終了し、議会が冷静さを取り戻した段階で、大統領自身がホワイトハウスを離れる2017年1月までの、いわゆるレームダック期間を利用してTPP協定を議会に上程し批准に努めると繰り返し主張しているが、容易ではない。現時点で大統領に最も近いといわれるヒラリー・クリントン候補ですら、現行のTPPは欠陥があるとして、再交渉を言明している。いまや、このTPP協定に、これまで国内での反対を認識して、TPP参加の予定がなかった国までが、追加加盟の意思表示をし始めているのは、このTPP協定が当初の野心的な内容からはかなり後退した、いうなれば、参加国が受け入れやすいものになっているからだ。「これなら参加できる」というのが、インドネシア、タイ、フィリピンや台湾、韓国の本音だろう。逆にいえば、アメリカ議会、産業界、労働界、環境保護団体、NGOなどは絶対に受け入れたくない協定なのだ。
穏健派のクリントン候補が大統領となっても、いざ再交渉となれば、これまでのTPP交渉とはテーマもアメリカ側の要求もまったく次元の違うものになる可能性がある。少なくとも以下の三つの大きな障壁が再交渉の行く手に暗雲を投げかける。
(1)生物製剤、自動車原産地問題
アメリカにとって製薬業、特に圧倒的な競争力と独占力を持つ生物製剤は知的財産権問題も絡む最重要課題であり、12年間のパテント(特許)保護期間は死守しなければならず、現行協定のままでは認められない。自動車原産地規則(ROO)問題はそれ自体、複雑で不確定な問題が多いが、さらにメキシコの内政問題からくる強硬姿勢が絡み、北米自由貿易協定(NAFTA)との整合性が問題となる。
(2)メガ貿易協定との整合性
TPPと同時並行で進められる環大西洋貿易投資パートナーシップ協定(TTIP)、新サービス貿易協定(TiSA)など関係するメガ協定との整合性も重要である。TTIPは、最大のプロモーターであるイギリスがEUからの離脱(BREXIT)を決定したので、仕切り直しが必要となるし、ヨーロッパ側はこれによって貿易のリーダーシップをアメリカからヨーロッパに取り戻したい野心を持っており、解決は容易ではない。16年8月にはドイツの経済相が事実上の「交渉決裂」に言及するなど、行き詰まりは明らかだ。TiSA、そしてTPPの対抗馬でもある東アジア地域包括的経済連携(RCEP)も、TPPと相互影響関係があるので、TPPの足踏み状況は他のメガ貿易協定にも影響を与えつつある。
今後の貿易交渉に必ず求められる視点
(3)環境・人権問題への配慮TPP交渉を始めた時点では、環境問題や人権問題が貿易において決定的な要素であるとは考えられていなかった。しかし、この6年の間に、世界の貿易に対する見方は大きく変化した。特に環境問題である。これは15年12月に難産ながら誕生した気候変動に関するパリ協定(国連気候変動枠組条約第21回締約国会議、すなわちCOP21において、世界の気温上昇を2度未満に抑えることに合意したこと)との整合性も含め、今後の貿易協定を直接拘束することになる。将来は環境に害を与える貿易推進などは否定されることになろう。
実はそのターゲットは日本にも向いている。日本の漁業や農業に対するアメリカ環境団体(シエラクラブ等)の批判を軽視してはならない。日本政府が成長戦略として主張する高級和牛の輸出も、アメリカから海路はるばる輸入した飼料を与え、非自然環境で飼育された牛の肉をジェット機でニューヨークに送ることの環境負荷などを考えれば、安易に推進できるものでないことが理解されよう。
環境と同様に、人権問題もこれまで貿易と直接関係することはなかった。貿易が対象国そして世界の人権状況の改善に資するのか、害があるのかは今後の貿易にとって重要な判断材料となる。現行のTPP協定も、マレーシアが強制労働・人身売買問題(仏教国ミャンマーから流入したイスラム系ロヒンギャ難民に関する)で、本来のアメリカ国務省基準では貿易相手国と認められない可能性があった。TPPの崩壊を恐れたオバマ政権が基準を政治的に操作して、なんとか認められたが、実は日本も人権問題では、外国人研修制度、児童買春・慰安婦問題などで国際社会からの批判にさらされ、先進国としては唯一、マレーシアと同じ低基準に位置付けられている。
残念ながら、日本ではTPP協定のみならず、貿易・投資問題全般に関しても、このような視点はこれまでまったく顧みられてこなかった。対策や研究はおろか、この問題に対する認識すらない。しかしそれではもう許されない国際環境が日本を包囲しつつある。
世界変動の中での貿易協定と日本の国益
本稿のまとめとして、21世紀型の貿易協定に求められる視点と、その中で日本の国益をどう守っていくべきかについて、以下(1)~(4)の四つのポイントを指摘しておきたい。(1)忘れられてきた国連の役割
いったい、国連と貿易にどういう関係があるの? といぶかしく思う方もおられると思う。しかし、1970年代にちょうど現在と同じように多国籍企業の横暴が世界の経済秩序を阻害していると考えて、国連は多国籍企業センター(CTC ; Centre on Transnational Corporations)を作り、多国籍企業の活動を監視し、ルールを定めた。現在、国連は15年に採択された持続可能な開発目標(SDGs ; Sustainable Development Goals)と、2030年までの持続可能な開発のための目標を定めた「2030アジェンダ」において、17の目標と169のターゲットを掲げたが、その中で、貧困や健康などテーマの多くがTPPと関係を持っている。TPP協定署名直前の16年2月2日に国連人権理事会の独立専門家アルフレッド・デ・サヤス氏が現行TPPの問題点を指摘し、協定への署名・批准を拒否するように声明を出したが、国連は現在、国際開発に対する影響の観点から、TPPの厳しい監視を始めている。
また、国連合同エイズ計画(UNAIDS)とランセット委員会(「ランセット」はイギリスの権威ある医療誌)が抗HIV薬に対するTPP協定の影響に懸念を表明したほか、ランセット委員会からは、TPPおよびそこで採用されるISDS(投資家対国家の紛争解決)条項の医薬・健康分野での悪影響が、繰り返し指摘されている。
このほか、抗HIV薬や、感染症対策で安価なジェネリック医薬品を多用する国際医療援助機関、例えばMSF(国境なき医師団)などから、TPP協定に対して懸念と批判が表明されている。
いまや、TPPは12カ国の参加国だけがステークホルダーなのでなく、広く国際社会にその意義と価値を開示して了解を得なければならない状況が生まれつつある。
(2)環境・人権に配慮しない貿易協定は成立しない
TPP交渉の山場となった15年夏、アメリカで大統領への貿易交渉権限(TPA)授権問題がかくも紛糾したのは、アメリカも合意した気候変動に関するパリ協定との整合性や、マレーシアでのロヒンギャ難民の取り扱い、ブルネイの厳格なイスラム刑法制定(女性の地位、同性愛者処罰など)といった人権問題が焦点となったためだ。これまで十分に論議もされていなかった環境や人権の問題がにわかに貿易協定の命運をにぎることになった。アメリカにおけるその急先鋒が、民主党の重鎮ナンシー・ペロシ下院議員であり、将来の大統領候補と期待される元ハーバード大教授のエリザベス・ウォーレン上院議員だ。その意味で保守的で企業寄りのクリントン候補が大統領になっても、TPPの再検討は必ずおこなわれるに違いない。
日本にとって必要なことは、もはや貿易交渉で環境や人権に配慮しない貿易協定はないことを自覚し、国内農業・漁業対策も含めて、しっかり対応を講じることである。2010年に当時の菅直人首相がTPP参加の意思表示をほのめかせて以来、日本では、TPP阻止や反対する運動はあっても、対象となる業界の自己改革や、激変する世界の中で日本経済の基本構造を変革するような改革案は何一つ出てこなかった。国際条約を押し返せば生き残れるというのは、信じられないほど楽観的な考えで、再交渉が始まった時点で過去の無策のつけを支払うことになろう。