日本が交渉中の多国間自由貿易協定(メガFTA)だけでTPP(環太平洋経済連携協定)をはじめとして、EU(欧州連合)との日欧EPA(経済連携協定)、中国やインドも参加するRCEP(アールセップ。東アジア地域包括的経済連携)などがあり、参加各国はそれを推し進めてきた。だが、2017年1月、アメリカのトランプ大統領の「TPPからの永久離脱」宣言以降、交渉は滞り先進国は「保護主義」というモンスターとの闘いに突入した。なかでも日本はこれらの交渉を前がかりになって進めている。TPPではアメリカ抜きの妥結を目指しているが、同年10月の日米経済対話で二国間FTAも出ている様子だ。
長年にわたってこれらの貿易交渉を現地に取材し、各国のNGOとも連携しウォッチし続けてきた内田聖子さんに、これら自由貿易協定について寄稿してもらった。
WTOの行き詰まりから広域経済連携協定へのシフト
1995年に設立された世界貿易機関(WTO)は、アメリカ対EUという先進国同士の対立、そしてインドやブラジル率いる途上国と先進国との熾烈な攻防を経て、2001年から始まったドーハ開発ラウンドはいまだに合意できず行き詰まってしまった。いつまでも進まない交渉に苛立ったアメリカは二国間FTAへと方針を変え、2000年代後半からはTPPなどの広域経済連携協定へとシフトしていく。
アメリカの貿易戦略の基本方針を定める『通商政策アジェンダ』(2014年版)に位置づけられたTPP、TTIP(環大西洋貿易投資協定)、TiSA(新サービス貿易協定)など、いわゆる多国間自由貿易協定(メガFTA)時代の到来である。
日本では2013年がメガFTA元年となった。政権与党に返り咲いた自由民主党は、同年3月にTPP交渉への正式参加を表明。その3カ月後の6月には、TiSAやRCEP、日欧EPA、日中韓FTAといったいろいろな枠組みの交渉も始まった。当時、日本政府や自由貿易推進の研究者らは、「これからはメガFTAによって質の高い貿易・投資ルールがつくられる」と喧伝していた。行き詰まるWTOを打開するレジームとしてのメガFTAに大きな期待が寄せられた。
停滞するメガFTA交渉
それから4年、いずれのメガFTAも発効していない。
TPP(12カ国参加)については日本やオーストラリアが主導しアメリカ抜きの「TPP11」での発効が目指されているが、アメリカ市場へのアクセスを失ったベトナムやマレーシアなどからの協定修正要求が多数出ていて、交渉はまとまりそうにない。
2017年7月に「大枠合意」と報じられた日欧EPAも、日欧間の溝が大きく合意に至っていない分野が複数あり、交渉は2017年末まで(あるいはそれ以降も)続くことになろう。
当初は2015年内の妥結が目指されていたRCEP(16カ国参加)は、インドや中国、ASEAN(東南アジア諸国連合)と多様な参加国間の溝は埋まらず、2017年9月の閣僚会合で「妥結は2018年以降」との方針が確認された。
アメリカとEUとのTTIPも完全に棚上げ状態となっているままだ。
これらさまざまな動きを冷静に見てみると、経済効果や国民への実質的な利益については語られず、交渉参加国が「自由貿易」という名のイデオロギーに取り憑かれていると言ったら大袈裟だろうか?
なぜメガFTAは妥結しないのか?
国際市民社会の視点から言えば、メガFTAの停滞は必然である。アメリカのTPP離脱以前から、すでにメガFTAは解決不能な深刻な対立に直面してきた。
TPPは自由貿易協定と言いながら実は特定の集団(先進国の大企業)によってつくられ、管理されてきた。アメリカでは政府から約600人の「貿易アドバイザー」が任命され、外部には秘密の交渉テキストも自由に見ることができ、政府への提案も行う。そのほとんどは多国籍大企業の人間であり、政府はそれら多国籍大企業のエージェントと化しているのが実態だ。
日本を含め他国でも、財界の声は交渉に反映される一方、私たち国民には交渉過程を公表しない取り決めだからと情報開示も不十分である。こうしたあり方が次第に露呈していく中で、各国で激しい抵抗に遭い交渉の歯車は狂っていった。
この背景には過去30年間における貿易・投資協定の中身の変化がある。かつては関税中心だった「貿易」の枠組みを超えて、現在はサービスや金融、投資の自由化、それに伴う国内制度改革、例えば外国企業への市場開放や規制緩和などを強いる「ルール」へとシフトし、交渉は広範囲に及ぶことになった。
軽々と国境を超える自由を手にした企業にとって、私たちの生活を守る法律や規制は、企業の利益を阻む「障壁」となって表れる。現在進む貿易交渉の主要な中身は、この規制の撤廃、すなわち「グローバルな規制緩和」と言える。
また、メガFTA交渉参加国それぞれの経済発展段階や規模には大きな差があり、先進国と多国籍大企業が求める強い自由化ルールにすべての国が合意できないのが実情だ。特に途上国を含む場合は、公衆衛生(医薬品を含む)や公共サービス、国有企業などの分野での対立が鮮明となっている。
例えば、多くのメガFTA交渉の中で、最も熾烈な対立となっているのが医薬品アクセス問題である。TPPでもRCEPでも、先進国の大手製薬企業が求める医薬品特許権の保護強化が提案され、それに対して経済規模も小さく貧困層も多い途上国や、ジェネリック医薬品の製造国であるインドなどが抵抗しているという構図だ。
エイズやマラリア、各種の感染症患者が数多く存在する途上国側にすれば、1日でも早くジェネリック医薬品を普及させたい。1日1.9ドル以下の絶対的貧困ラインで暮らす人々にとってみれば、たとえ1セントの薬価の違いであっても命に直結するからだ。
1995年にWTOの知的財産権の貿易関連に関する協定(TRIPS<トリップス>協定)が定められ、企業の特許権が強化されて以降、エイズ患者や支援団体、医療関係者や公衆衛生NGOなど国際市民社会は、「医薬品アクセスは基本的人権である」と、国連機関や各国政府に働きかけ続けた。以来、企業と市民社会の攻防は現在まで続いている。「命なのか、利潤なのか」を問う闘いである。ここに、メガFTAが妥結できない本質的な理由を見ることができよう。