私はこの被告人と小さな接点を持っている。脅迫状は「創」(創出版)という雑誌にも送られ同誌がそれを掲載したこともあって、篠田博之編集長は犯人逮捕後も拘置所に出かけて接見を重ねている。3月の初公判で読み上げられた冒頭意見陳述で、渡邊被告人は自らの心の内を自分なりの言葉で分析しようとしていた。それを見た篠田編集長は、「彼、心の中に問題を抱えているよね。今度、接見に行くときに差し入れる本を推薦して」と同誌に連載コラムを持っている私に依頼してきたのだ。
その意見陳述を読み、私は、彼がわが子を「醜い」と否定してばかりの母親、アニメを見るだけで殴る、蹴るといった厳しすぎる父親のもとで育ち、小学校に入学してからはひどいいじめにあい、教師に訴えてもまったく相手にされなかったことを知った。彼自身は自分の犯罪は格差社会の中で「負け組」となった人間が成功者に嫉妬して起こしたもの、と述べていたのだが、話はそんなに単純ではないと感じた。私は精神科医の高橋和巳氏の「消えたい」(14年、筑摩書房)という本を推薦した。高橋氏は、虐待を受けておとなになった人は、私たちとはまったく異なる世界に棲んでいるようだ、と書いている。同書の中で、ある女性が振り返る。「家の中で、私はいるけど、いない。私の居場所はなかったし、私はいなかった」。誰にも自分を認めてもらえず、気持ちも共有してもらえないまま育つと、ついには自分自身でも自分が存在しているのかいないのか、わからなくなってしまうと言うのだ。
渡邊被告人はこの本を熱心に読んでくれたようで、最終意見陳述ではやや興奮したような文体で「社会的存在」になれずにきた自分は「生ける屍」だった、と述べる。そして、最初に記したように、何も疑わずに目標を持って努力する人たちを「努力教」と揶揄しながらも、それにすらなれなかった自分に絶望もしている。被告人にとってあるとき出会った「黒子のバスケ」という大ヒット作品の作者は、「『夢を持って努力ができた普通の人たち』の代表」に見えたのだという。
誰からも「そこにいていいんだよ」と自分の存在さえ保証してもらえずにきた被告人にとっては、自分の話を聞いてくれる検事らがいて、エアコンがきいている安全な部屋が与えられ、バランスの取れた食事が出てくる拘置所は、生まれてはじめて経験する快適な場所なのだという。逆に言えば、これまではそれくらい劣悪な環境で、「私はいるけど、いない」と感じながら生きてこなければならなかった、ということだ。
もちろん、だからといって作者やたくさんのファンを恐怖に陥れ、大きな迷惑をかけた彼のやったことが正当化されるというわけではない。ただ、これくらい考える力、表現する力を持っていた彼を、これまでただのひとりも認めたりほめたり、いっしょに楽しんだり悲しんだりしてくれるおとながいなかった、というのは不幸そのものであることはたしかだ。もっと言えば、この豊かに見えるいまの日本にも、彼のような人間は無数にいる。ぜひネットや先の雑誌に公開されている「黒子のバスケ」脅迫犯の一連の発言を読み、親による心理的虐待やおとなの無関心が子どもの成長にもたらす恐ろしい影響について考えてみてほしい。