続々と新党が誕生
国政選挙前と年末には新党がよくできる。それでも今回のように雨後の筍よろしく相次いで新党を旗揚げするのは珍しい。与謝野馨、平沼赳夫両氏らによる「たちあがれ日本」に次いで、世論調査で「総理にしたい人物」のトップに挙がる舛添要一氏らによる「新党改革」が発足。いずれも自由民主党からの離党組が中心で、与党・民主党に対してより野党・自民党へのダメージが大きかった。これを横目ににらんで、地方首長らが「日本創新党」「ローカルパーティー『大阪維新の会』」を国会議員ゼロでスタートさせた。既成2大政党の民主、自民両党の行き詰まりが新党誕生の理由の一つだが、「第3極」を目指すといいつつも、どの新党にも明るい未来は見えない。一足早く発足した渡辺喜美氏の「みんなの党」は、3月28日の神奈川県の逗子市議選で公認・推薦3人を全員当選させ、独り気を吐いている。
きっかけは雑誌の寄稿
自民党の長老でふだん温厚な与謝野馨元財務相が衆院予算委員会の質問に立ち、鳩山由紀夫首相を「平成の脱税王」と呼んで激しく非難したことに驚かされたが、その与謝野氏が月刊誌「文藝春秋」(10年4月号)に寄稿し、谷垣禎一自民党総裁に「なんとも腑抜けた質問を繰り返している」と論難して退陣を求めた。谷垣氏が辞めないなら「新党を含む新しい道」を歩むと宣言した。18年前に細川護煕氏の新党旗揚げも「文藝春秋」寄稿がきっかけだったことを思い起こさせる。自民党は党内の不満へのガス抜きとして10年4月1日から議員懇談会を開催したが、谷垣氏が続投を表明し、与謝野氏の忠告に耳を貸そうとしなかったため、与謝野氏はついに3日、離党届を提出した。05年の郵政解散のとき離党した平沼赳夫元経済産業相と連携して10日、新党「たちあがれ日本」を旗揚げした。代表には平沼氏が就き、与謝野氏は共同代表に納まった。
しかし参加議員は衆議院3人、参議院2人の寂しい出発。郵政民営化を推進した与謝野氏と反対した平沼氏の合流であるため政党の軸はあいまいで、他党からは「立ち枯れ新党」(渡辺喜美氏)とか、平均年齢69.6歳の「アラコキ(古希)政党」「シルバー新党」と揶揄(やゆ)される始末だ。
元気な地方自治体の首長
永田町政治の混迷を嘆く地方自治体の首長の方がかえって元気だ。東京都杉並区長の山田宏氏が4月8日、前横浜市長の中田宏氏や前山形県知事の斎藤弘氏らと連携して新党を結成する意向を表明。「永田町の動きとは一線を画した形で国民の声を集めたい」とした。山田氏らは18日には、現職首長・首長経験者による「日本創新党」結成を発表した。国会議員ゼロのスタートだが、夏の参院選には10人以上立てる方針も明らかにした。この政党も、細川護煕氏が知事辞職後に新党を立ち上げて政権の座に就いた故事を思い出させる。
翌19日、今度は大阪府の橋下徹知事がローカルパーティー「大阪維新の会」を設立。当面は国政を目指さず、「大阪都」新設構想の実現を目指すとしている。11年の統一地方選では大阪の選挙地図を一気に塗り替える可能性がある。
さらには名古屋市の河村たかし市長が26日、「減税日本」を旗揚げした。名古屋市議選の多数派確保が目的の地方政党だ。3つの“新党”とも国会議員がゼロのため政党扱いされず、政治団体にとどまっている。
「助成金目当て」との批判も
与謝野馨氏の離党表明の前後から注目されたのが、舛添要一前厚生労働相の去就だった。当初、舛添氏は谷垣総裁の交代を求めることに主眼があったが、谷垣執行部は退陣を拒否。そこで舛添氏は新党を模索し、4月15日には宮崎県の東国原英夫知事と会談したが、らちが明かなかった。舛添氏は方針転換し、今度は改革クラブ(渡辺秀央代表)に声を掛けて、一気に新党話が進んだ。22日、離党届を提出。翌23日、改革クラブに合流する形で「新党改革」を立ち上げた。これで政党助成金も継続して受け取れることになった。
しかし、先に離党した鳩山邦夫氏や舛添氏を支援してきた塩崎恭久、菅義偉両氏らも加わらず、参加議員はわずか6人。「助成金目当ての新党」との批判も出る一方、有力首相候補を失った自民党にも打撃だ。普天間基地移設問題で鳩山内閣の先行きも見えず、日本政治全体が漂流期に入った。