政権誕生までの長い空白期間
2010年11月26日、イラクのタラバニ大統領は、マリキ首相を次期イラク政府の首相に指名した。同年3月に実施された第2回国会選挙以来の政権不在状態が、ようやくマリキ首相の続投で落ち着いたのだが、8カ月以上の政治空白は、ギネスものである。首相指名にこれだけ時間がかかったのは、選挙の結果、上位3党がほぼ4分の1ずつ議席を分け合い、連立工作が難航したためである。アメリカは、2議席差でかろうじて第1党となった政党イラキーヤ(イラク国民運動)のアラウィ元首相に期待をかけていた。
アラウィは04年、イラクがアメリカ軍から主権を移譲されて初めて成立した暫定政権の首相を務めた経験を持ち、イラク戦前からCIAと密接な関係を持つ親米派である。11年末までにすべてのアメリカ軍の撤退を予定しているオバマ政権としては、アメリカ軍撤退後にできるだけアメリカの政権に忠実な首相を望んでいたことだろう。
だが、第2党の法治国家連合と第3党のイラク国民同盟は、05年1月の制憲議会選挙、同年12月の第1回国会選挙以来、イラク統一同盟として与党を担ってきた政治連合である。09年以降分裂したとはいえ、シーア派イスラム主義を掲げる政党同士として、5年間連立を維持してきた。その経験をもとに、アラウィに対抗して第2党、第3党が再度合流し、第1党を抑えてマリキを擁立したのである。
イラク内政は国内政治家の手に
この経緯に、アメリカの意向と、イラク国内に地盤を持つイスラム主義政党、そしてそれに強い影響力を持つイランという、イラク内政における周辺国の代理戦争的な対立を見ることが可能かもしれない。だが、事態はもう少し複雑だ。アラウィに勝ち目なしと見て取ったアメリカの政権は、10年8月の段階ではすでにマリキ続投やむなしの方向を示していた。またイランも、同じシーア派イスラム主義政党のなかでもマリキよりイランに近い政治家を推すことができたが、9月初めにはマリキ支持を示唆(しさ)していた。にもかかわらず、首相指名はその後もさらに3カ月近く決着しなかったのである。
つまり、アメリカにせよ、イランにせよ、今のイラク内政を主導する力を持っていないこと、イラク内政はあくまでも国内の政治家たちの間の権力抗争で動かされている、ということが明らかになっている。
嫌われたアメリカ軍
アメリカ軍が完全撤退した後のイラクはどうなるか、ということが懸念を持って論じられているが、そもそもこれは、イラクの戦後統治を成功裏に収めての撤退ではない。イラク戦争開戦から現在までに4400人以上の死者を出すというアメリカ軍側の被害の大きさに辟易(へきえき)して決定されたものだ。戦後にアメリカ企業が独占的に獲得した復興事業のほとんどが、治安の悪さや企業側の非効率が原因で完成されておらず、電力施設や上水道などの基礎インフラは改善されないままにある。その意味では、アメリカ軍やアメリカ企業の存在は、いなくなっては困るというものとはほど遠い。逆に09年6月に都市部からアメリカ軍が撤退するまでは、目ざわりで住民感情を刺激する、やっかいな存在だった。
終わらない権力抗争
では、当初13万人のアメリカ兵が10年8月末に5万弱に削減された今、イラク人政治家主導で国政が動くことに、イラク人たちは満足感を得ているのだろうか。08年ごろから治安も回復し、当初政界から排除されていたスンナ(スンニ)派にも政権参加の道が開かれ、マリキ政権に対する国民の支持は悪くはなかった。特に好評だったのは、マリキ自身がイスラム主義政党の出身ながら宗教依存、宗派的偏向を否定し、国民和解、中央集権を推し進めたことである。
10年3月の国会選挙で、マリキ率いる法治国家連合が、他のシーア派イスラム主義のイラク国民同盟と袂(たもと)を分かったことは、宗派分断を嫌い、国民統合を求めるイラク世論に呼応してのことだといえよう。
他のシーア派政党に比べてイランと距離をおき、イラクとしてのナショナリズムを強調したことも、マリキの強みであった。
しかし、同じシーア派政党の中で頭ひとつ抜け出して、自立方向に歩み出したとはいえ、法治国家連合は選挙で過半数はおろか第1党も取れなかった。イラキーヤがスンナ派住民票に加えて、より強く世俗主義を志向するシーア派住民の票を集めて、第1党となったのである。いま一歩及ばなかった法治国家連合は第1党の地位を得るために、再び、同じシーア派イスラム主義のイラク国民同盟と組むこととなった。
世俗主義を標榜(ひょうぼう)するイラキーヤ、宗教色を薄めた法治国家連合が選挙で最も多くの票を獲得した、ということは、戦後の宗派分断と地方自立化の弊害に悩む国民の声を正確に反映した結果だといえる。だが、その後の連立構想の過程で、結局は宗派に依存した連立が復活するという元の木阿弥(もくあみ)に戻ってしまった。宗教から距離を置く、という点ではイラキーヤと法治国家連合が連立を組むことも可能だっただろうが、シーア派、スンナ派という宗派を超えた大連立は実現しなかった。このことは、5年前には歓喜をもって迎えられた自由選挙の導入が、早くも国民の間に政治不信を生む結果となっている。
一方で、戦後の社会経済環境を改善させるような、画期的な方策がイラク政府から打ち出されることもなかった。06~07年にピークを迎えた、国内外で難民化するイラク人は現在も500万人を超え、治安が落ち着いても難民が海外から戻ってくる様子はない。
選挙結果がいかに民意を反映しても、結局は同じ顔ぶれの政治家たちの談合と権力抗争によって政権が左右され、政治が国民不在で展開するという、議会制民主主義の矛盾に、今のイラク人は悩まされているのである。
シーア派
第4代カリフ、アリーを支持するイスラム教の宗派。預言者ムハンマドの死後、そのいとこで娘婿(むこ)でもあるアリーとその子孫をイマーム(指導者)として奉ずる。