取引先の要望や地域性など、細かな発注に対応し信頼関係を築いてきたのが、仲買業者であったと小野は言う。原発事故は、そうした積み重ねを一瞬で壊した。
「魚というのは、地方の特性がすごく出る。赤ガレイは東京でも相馬でも売れない。売れるのはいわきと名古屋。不思議でしょ。だから市場によって売り先をわけたり、小売りの注文にも対応できるノウハウをもっていて、自分の取引先に応じて細かくやってきた。それが原発事故で、ただ福島でやっていたがために、全部ダメになった悔しさはあるんだよ。俺らはちゃんとやっているのにな、と」
この10年間で福島県の仲買業者は約4割減った。製氷業者や運送業など、水産業に欠けてはならない業者も浜から消えた。特に浜通り北部の相双地方が顕著で、漁師が獲っても捌けない状態ができつつある。
こうした中で、処理水の放出を受け入れる余地などあるはずもない。
「処理水流すのは反対。でも、これまで魚に関して汚染されたものは市場に出さなかった。漁業者、魚屋、市場含めて、関係者の努力の賜物。この実績をわかってほしい。だから、今度処理水が出されようが何だろうが、淡々といままでの実績を踏まえて、汚染されたものを市場に出さないという自信はある」
廃炉へのジレンマもある。大切なのは、こうした努力と安全性への理解だ。その前提として、発信する政府や東京電力への信頼が足りていないように見える。
「大元が信頼できなきゃどうしようもない。廃炉完了して、初めてスタートラインだと思っている。ただ、それまでには期間が長すぎるんだよな。その間に、後継者を育てることができるような構造にしないとダメ。賠償では産業は進まない」
観光業の10年と損害賠償
「致死量に満たない毒入りリンゴだから、食べても安心だと言われても、食指が動く者はほぼいないであろうということは、容易に想像ができます」
意見聴取の会合で、そう述べた人物がいた。いわき湯本温泉で旅館を経営し、福島県旅館ホテル生活衛生同業組合の理事長を務める小井戸英典だ。小井戸はこの場で「至極残念ではございますが、福島県内において処分するのが最も道義的な選択」と述べ、「放出を容認」と報じられた。だが、小井戸の真意は別であった。
「切り取り報道されたけどね。海洋放出は絶対反対ですよ。でも結論を先送りにすれば、それだけ負の遺産も増えていくことになる。福島はほかにも汚染土とか、いろんな課題があります」
春の日が差す旅館のバーのソファで、一息ついて小井戸は続けた。
「非常に不本意であるけれど、苦渋の思いで受け入れるということです」
組合内では議論を重ねた。いわき市や相馬市など、海を資源にした観光地のメンバーからも意見を聞いた。沿岸の魚介類を売りにしていた仲間もいる。それでも、他の土地に処理水の処分を押し付けることはできない。容認せざるを得ない。そういう議論の末の結論であった。
それから1年。苦渋の表明と共に政府に求めていた、説明や理解の醸成は進んでこなかった。
「地元に住んでいる人たちにも、一般の国民にも説明がなかったというのは残念ですね。何でかなと思う。意見聴取後の1年間、どういう対策をしてきたのか見えない」
方針決定後、廃炉・汚染水・処理水対策福島評議会に出席した小井戸は、政府と東電に訴えた。
「風評被害を含め損害を被るのは、一次産業がクローズアップされますけど、二次、三次産業すべての業種に対して損害賠償が発生します。これを処理水の処分が終了するまでの全期間にわたって、速やかに実行できるよう、政府には、因果関係の立証やその支援を担うと同時に、東電に手続きの簡素化と迅速な賠償の実行を指導して頂きたい」
原発事故後、県旅連の賠償を取り仕切った小井戸は、釘を刺さなくてはならないだけの理由があった。
福島の旅館の多くは、事故直後に原発作業員を受け入れ、その後は避難者を受け入れた。そして、避難者が宿を去ると、売り上げは急落した。だが、一度離れた観光客は戻らない。
「普通の旅館なら『いらっしゃいませ』だったのが、『行ってらっしゃい』になっていた。旅館としてのサービスの質は落ちました。部屋も畳も荒れました。従業員も再教育して、建物も直して。そういう中で組合として、東電と損害賠償の交渉をやってきたんです」
状況が大きく変わったのは2015年。東電は直近の年間逸失利益の2年分の損害を商工業者に対して一括して先払いし、その後は「個別に対応する」方針を打ち出した。これによって、県旅連が窓口になる枠組みは終了し、それぞれの旅館やホテルが個別に対応することになった。
「努力しても客が戻ってこない。スキー場で外国人観光客をメインにしたところや、海水浴や海産物を売りにしていたところとかね。それまでは団体で、書類出せばすぐ賠償されてきたのが、東電の担当者が個別に宿に来て、情報や決算書の提出を求められるようになった。小さな宿はなかなか対応できない。ADR(裁判外紛争解決手続)にしても、ADRセンターの言うことを東電は最近聞かない。ですから、個別の交渉というのはとても怖い」
損害とは何かを考え直す時期
福島の観光客は震災前の98.5%まで回復したが、今度は新型コロナウイルス感染症で苦境に立つ。処理水の問題が、どれほどの打撃となるのか想像もつかない。しかし、いまのままでは、損害が発生しても、不十分な賠償しかされない可能性が高い。
原発事故の賠償問題に取り組んできた平岡路子弁護士は「いままでの賠償の枠組みを見直す必要がある」と話す。
「損害が何なのかを捉え直す時期に来ていると思います。賠償を交渉する現場では、東電は『原発事故当時の(地元の旅館などの)企業価値を上回る賠償をすでにしているので、さらに賠償すべき損害はない』などと主張することが増えてきました。しかし、いまの枠組みはこれほど企業価値が棄損され続けることを想定したものになっていません。海洋放出の際も、賠償という枠組みでは償い切れないのではないかと思います」
交通事故ならば、事故が発生したことによる損害は一時的なものとして算出ができるかもしれない。だが、今後30年にわたって続く海洋放出で棄損された価値を、一時的なものとして考えることは、実態と大きく異なる。そしてそれを個別に立証するとなると、ハードルはさらに高くなる。