福島の帰還困難区域とその周辺で生きる人々を描いたルポルタージュ『白い土地』(集英社クリエイティブ)を2020年10月に刊行した朝日新聞記者・ルポライターの三浦英之さんと、原発事故による自主避難者の「住宅提供打ち切り問題」や「処理済み汚染水の海洋放出問題」などに取り組んできたテレビユー福島記者の木田修作さん。福島に根を張って取材を続ける二人が、震災から10年を迎えた福島の過去とこれから、そしてそれを報じるメディアのあり方について語り合った。
「中央」から「地方」へ
三浦 木田さんは現在テレビユー福島で記者をしていますが、もともとは東京でTBSテレビの記者をされていましたよね。どのような経緯で福島に来たのですか?
木田 2010年に新卒でTBSに入社し、翌年3月に東日本大震災が起きました。当時はまだ東京本社の内勤で現場に出たことがなかったのですが、2011年4月に初めて福島に3週間ほど応援取材に行くことになりました。福島での最終日に、「これだけの大災害なのだから、1年で取材を撤退したら笑いものになる」と先輩たちを前に啖呵を切っていたのですが、東京に戻ってからは政治部や社会部の配属となり、結局その後福島に行けなかったんです。それがずっと心残りでした。それで、2015年にTBSを辞めて福島に移住することにしたんです。
三浦 僕は震災の翌々日に宮城県南三陸町に入りました。いたるところに損傷した遺体があり、思い出すのもつらい凄絶な現場でした。あるベテラン記者には「こんな震災はもう二度と起こらないから、記者を一生続けていくならここに錨を下ろしたほうがいい」と言われました。僕の場合は転勤で全国を回されるわけですが、全国紙の記者で居続けようとする限り、特定の地域に何十年も連続して腰を据えることは難しい。木田さんは、福島に錨を下ろしたわけですね。
木田 福島のいわきに住み始めた頃は、メディアとは関係のない会社で9時から17時まで働きながら、17時以降に地域活動や、同じ年代の人たちと集まってイベントをやっていました。そこで一生活者として福島の「被災地」とは違った側面を感じることができました。しばらくテレビの仕事からは離れていたのですが、2018年3月からは、縁があって今のテレビユー福島で働くことになりました。
三浦 中央と地方、両方で働いたことがある人は珍しいと思いますが、違いは感じますか?
木田 まず番組にかける人員が、地方局の場合は、中央の10分の1くらいだと思います。関わる人が少ないので、地方のほうが自分の率直な思いをVTRに込めることができます。あとは、3.11の震災については、テレビユー福島などの地方局の場合は1年間取材し続けてきたものを3月に出すのですが、中央の場合は1月くらいから動きだして、2月に取材して、3月に出すという感じで、その取材期間の長さが一番違いを感じるところですね。そもそも、福島のことが3.11以外で全国的に報道されることは、ほとんどなくなっているのではないでしょうか。
不可視化する福島
三浦 2017年にアフリカから福島に赴任したときに驚いたのは、国内で福島の報道が極めて少ないということでした。海外では、日本のニュースというのは、経済やサブカルなどの文化と並んで福島の原発についての話題が多いんです。福島は、世界的にも注目されている現場なのに、なぜ国内の報道が少ないのか。特に最近は、福島の問題がどんどん目に見えなくなってきている。帰還困難区域の朽ち果てた家も壊されて更地になったりしている。「絵」を重視する映像メディアとしては、伝えることが難しくなっているのではないでしょうか。
木田 そうですね。帰還困難区域は、震災当時のままと言われることがありますが、実際にはすごいスピードで変化しています。この10年で家や店の解体が進み、更地が増えており、以前の風景が分からないくらい変わり、震災の記憶が次第に遠のいているように思います。帰還困難区域にある浪江町津島地区の家は、草木に覆われてそこが家だとはもはや認識できません。たしかに震災や原発事故がどんどん目に見えなくなっています。ただ、だからこそ風景の変化などを将来の私や後輩が映像素材として使えるようにするためにも、今の姿を映像として残しておかなければいけないと思っています。