福田康夫首相は2008年1月4日の年頭会見で、政権発足から3カ月をこう振り返った。1月17日の党大会で採択された自民党の運動方針でも、党の現状を「立党以来の最大の危機」と位置付けている。事実、福田内閣は発足時の高い支持率を失い、低空飛行を余儀なくされている。08年の政局の最大の焦点は解散・総選挙の時期だが、解散に打って出るだけの余力はなく、7月の北海道洞爺湖サミット後に持ち越されそうだ。
安倍前政権の後始末に奔走
安倍晋三前首相が突然、辞任を表明した後を受けて、第22代総裁に就任した福田首相率いる内閣は「緊急避難内閣」の性格を持つ。安倍政権から引き継いだ政策課題が福田政権を苦しめている。
そのうちの一つが新テロ対策特別措置法案。安倍前首相は退陣直前に行った日米首脳会談で、新テロ対策法案の成立を「職を賭して実現する」と公約した。
福田首相も07年10月16日にワシントンで行った日米首脳会談で、「新テロ対策法案の早期成立に努力する」と表明。安倍首相の対米公約を裏書きした形となった。
新テロ対策法案を成立させるためには「国会再延長―新テロ法案再議決」が必要だが、そうすると衆議院解散・総選挙の可能性も出てくるため、公明党側の了解を得ておこうとした。
そこで福田首相は12月11日、太田昭宏公明党代表と会談。会談後に太田代表は、「私は『解散は来年以降が望ましい』と話しており、首相もご存知のはず」と語った。公明党としては早期の衆院解散はないとの確信を得たからこそ、国会再延長・新テロ法案再議決にゴーサインを出したというわけだ。
年金問題で支持率急落
安倍内閣から引き継いだ、もう一つの難問は5000万件の宙に浮いた年金記録の照合問題だ。安倍前首相は「2008年3月末までに記録照合を終える」と表明。参院選中には「最後の1人に至るまできちんと正しくお支払いする」と過剰公約をしてしまった。
舛添要一厚生労働相も8月の就任後に、「最後の1人まで、最後の1円まで確実にやる」と述べた。
ところが、その舛添厚労相が12月11日、記者会見し「(全員の照合は)エンドレスだ。できないこともある」と年金記録公約の断念を表明。舛添厚労相は、「ここまでひどいとは想定していなかった」「選挙のときのスローガン。意気込みだ」と苦しい言い訳に終始した。
官邸サイドの発言もまた国民の不信を増幅させた。福田首相は、「公約違反というほど大げさなものなのかどうか」(12月12日)と、いつものおとぼけでかわそうとし、町村信孝官房長官も、「選挙だから『年度内にすべて(解明する)』と縮めて言ってしまった」(同日)と釈明した。
年金問題の混迷ぶりは内閣支持率を直撃した。共同通信社が12月15、16両日実施した全国世論調査で、福田内閣の支持率は35.6%と、前回11月上旬の調査に比べて11.7ポイントも急落した。朝日新聞の世論調査では31%と、内閣の危機ラインといわれる30%割れ寸前まで落ち込んだ。
薬害肝炎救済で二転三転
なんとか人気取りをしなくてはならないと考えて飛び付いたのが薬害肝炎問題だった。これも舛添厚労相の守備範囲。舛添氏は張り切って取り組んだ。早くから「(原告団の)みんなを救う」と述べ、12月20日、大阪高等裁判所の和解勧告を受けて、その対象から漏れる患者に30億円を支払う修正案を患者側に示した。「これが政治決断の案だ。ベストを尽くした」と言う舛添厚労相だったが、原告側は患者を線引きし、一律救済を認めない内容だとして拒否。舛添氏では打つ手なしとなった。
しかし、今度は内閣支持率の急落で危機感を抱いた首相官邸が動いた。福田首相は12月23日、一転して「一律救済」を認め、議員立法で行う方針を示した。政権の人気挽回を図ろうというものだが、朝令暮改の政策決定だけに、これまで手堅さが身上だった福田首相の右往左往ぶりも印象づけた。
新テロ特措法成立でひと呼吸
正月明けの08年1月9日、福田首相と小沢一郎民主党代表による初めての党首討論が行われた。年金問題とテロ対策問題が主テーマだったが、小沢氏も突っ込み不足だったし、福田首相も将来の「大連立」を考慮してか、小沢氏に対する厳しい反論は控えた。臨時国会の最大のテーマだった新テロ特措法案は1月11日の参院本会議で「否決」され、これを受けて同日午後開かれた衆院本会議で、3分の2以上の多数で再可決され、成立した。57年ぶりの再可決である。福田内閣としては最初の試練をクリアしたと言える。
民主党は、「首相問責決議案」の提出は見送り、福田内閣もひと息ついたが、早くも「3月危機説」がささやかれている。道路特定財源の暫定税率を維持する租税特別措置法改正案と年金記録公約の期限が3月に来るからだ。今年最大のテーマである衆院解散・総選挙の時期はまだ五里霧中だ。