総選挙に向けた自民党総裁選
福田康夫前首相は2008年9月1日、麻生太郎氏(当時、幹事長)を呼んで辞任の意向を伝えた。この席で「この際、総裁選をにぎやかにやってもらいたい」と要請した。自民党総裁選は9月10日告示された。本命の麻生太郎氏が最大派閥・町村派の大半を含む派閥横断的な支持を集めたほか、小泉純一郎元首相の「構造改革」路線の継続を掲げる中川秀直氏らが推す小池百合子氏、若手が担ぐ石原伸晃氏、第2派閥・津島派の一部が推す石破茂氏、さらに無派閥ながら政策論争を活性化させるべきだとして出馬した与謝野馨氏と史上最多の5候補が届け出て、一応にぎやかな選挙となった。5候補は党本部での立会演説会のほか、全国18カ所で街頭遊説を行い、総裁選というより総選挙に向けた「実質的な選挙運動」を展開した。ただ期待された政策論争は、それほど盛り上がらず、総裁選の情勢も終始、麻生氏有利のままで「消化試合」的な様相は変わりなかった。9月22日投票の結果は、投票総数527票のうち麻生氏が351票と約67%を獲得して圧勝。与謝野氏が66票と善戦し、小池氏が46票、石原氏37票で、石破氏が25票(他に無効2票)の順だった。投票結果に意外性はなく、自民党が当初狙っていた総裁選を盛り上げて衆院解散・総選挙になだれ込む作戦は必ずしも十分には機能しなかった。
文教族中心の「世襲議員」内閣
麻生氏は同22日に自民党役員人事を行い、自らが務めていた幹事長の後任に細田博之氏を起用。残り3役は再任した。24日には第92代、59人目の首相に就任し、麻生新内閣を組閣した。総選挙を意識した布陣だが、二世・三世議員が麻生首相を含めて11人に上る「世襲議員」内閣であり、5人の文部科学相経験者を含む「文教族」のお仲間内閣となった。しかし、文教族でもある中山成彬国土交通相が組閣直後に辞任したことは打撃となった。麻生首相は就任の記者会見で「日本を明るく強い国にするのが、私に課せられた使命だ」と強調し、財政出動による景気対策に政策の軸足を置く方針を強調した。しかし、福田前内閣から引き継いだ後期高齢者医療制度、年金記録の改ざん問題などへの関心は強く、争点ずらしが成功するかどうかは未知数だ。
民主、公明両代表とも無競争再選
もともと08年9月には民主、公明両党の代表選が予定されていた。福田首相の退陣表明で自民党総裁選も加わった結果、3大政党の党首選が実施され、いずれの党も来るべき総選挙への体制が整った。民主党では07年参院選で圧勝をもたらした小沢一郎代表のカリスマ性が強い。「開かれた政党」として代表選を実施すべきだとして、立候補を検討していた野田佳彦氏も最終的に立候補を断念。9月8日の告示日に小沢代表の無競争再選が確定した。菅直人代表代行、鳩山由紀夫幹事長らの執行部は再任された。
小沢代表は同日、代表選の公約として「新しい政権の基本政策案」を発表。このなかで、(1)高速道路の無料化、(2)月額2万6000円の子ども手当を支給、(3)農漁業者への戸別所得補償制度の創設、などを盛り込んだ。これは民主党の次期総選挙マニフェストの骨格となるものだが、財源が明確でないという弱点もある。
公明党は9月23日の党大会で、既定方針どおり太田昭宏代表の再選を正式に承認した。浜四津敏子代表代行、北側一雄幹事長ら主要役員は再任され、総選挙をこの執行部体制で戦うことになった。
麻生首相は解散を先送り
麻生新政権の誕生は、与党の「早期解散戦略」に沿うものだ。しかし、発足時の麻生内閣支持率が48.6%(共同通信世論調査)と福田前内閣の発足時の支持率に及ばず、さらに世界同時株安が直撃して、臨時国会冒頭の解散シナリオは見送らざるを得なかった。麻生首相は戦術を修正し、まず補正予算の成立に全力を挙げて時間稼ぎに出た。民主党が賛成に回ったため、補正予算は10月16日成立した。インド洋での海上自衛隊の給油活動を延長するためのテロ特措法改正案にも取り組んだ。
民主党は当初、同法案の処理にも協力する姿勢だったが、麻生首相が「10月解散」に慎重な姿勢になったとして、一転、対決姿勢に転じた。
自民党内では、NASA(中川昭一、麻生太郎、菅義偉、甘利明)グループが景気対策優先のため早期解散回避で動いたのに対し、細田博之幹事長ら党執行部と公明党は早期解散にこだわったものの、麻生首相は10月30日、追加の総合経済対策を発表するとともに、解散先送りを表明した。