冷戦後のNATO
NATO(北大西洋条約機構)というのは、アメリカとソ連(当時)が2大ブロックに分かれて対立した冷戦が、はっきりとした姿を現した1949年4月、ソ連を中心とする東側諸国に対抗するために作られた集団防衛条約機構である。条約の第5条は「締約国は、ヨーロッパまたは北アメリカにおける、1または2以上の締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃と見なすことに同意する」と規定している。原加盟国は12カ国で、89年の冷戦終結時には16カ国であった。冷戦が終わったとき、敵が消滅した。当然ながら使命を失ったのであるから、組織自体も不要である、との意見が出た。とくにロシアは、NATOに対抗してきたワルシャワ条約機構(WTO)が解体したのだから、NATOも解体し、東西を包摂する欧州安全保障協力会議(CSCE、後にOSCE)がヨーロッパの新しい安全保障組織になるべきである、と主張した。
しかし、NATOは、長年かけて協力のノウハウを蓄積してきた軍事組織である。解体は容易でも、創設には時間がかかる。結局、NATOは新たな使命を模索しながら存続することになったのである。
古い脅威と東方拡大
しかし、旧東欧・旧ソ連諸国にとっては、依然ロシアが脅威であった。一刻も早く、民主主義と繁栄した資本主義の象徴であるNATOへ加盟したい。当初、アメリカにもヨーロッパの加盟国にも、集団防衛の同盟国として、これら諸国を受け入れる用意はなかった。ロシアの反発も予想される。そのため、これら加盟を希望する諸国を同盟の「パートナー」として、将来的な加盟を見すえた「平和のためのパートナーシップ(PFP)」という枠組みを考案した。
ところが、アメリカのクリントン政権(1993年1月~2001年1月)は、民主主義圏の拡大を掲げており、再選を有利に運ぼうとの思惑もあって、政権第2期内での加盟国拡大を決定した。この結果、1999年3月、旧東欧であったポーランド、チェコ、ハンガリーの3国が、NATOに正式加盟を果たした。
ロシアはこの動きに激しく抵抗したが、結局、条件闘争となった。NATO側も配慮を示し、ロシアの特別な地位を認め、NATO・ロシア基本文書が調印されている。
NATO条約第10条は、新規加盟への門戸開放政策をとっており、2004年3月には第2陣の、旧ソ連バルト三国を含む7カ国が加盟し、07年現在の加盟国は26カ国となっている。
ヨーロッパ大西洋地域内の危機管理
一方で、NATOは冷戦後の新しい脅威に対応して、大きく変容していくことになる。1991年11月に採択された「戦略概念」で、バルカンの民族紛争を念頭において、加盟国領土外での危機管理に、軍事的に関与していく方向性が出された。そして、NATOの軍事態勢も、冷戦型の前方展開型からの後退、核兵器への依存の低下がうたわれた。
実際、NATOは、92年からバルカン紛争にかかわっていくことになる。ボスニア・ヘルツェゴビナに対する、国際連合(国連)の平和維持活動が失敗した後、95年のNATOによる本格的空爆が実施され、アメリカの仲介で同年11月、デイトン和平合意が成立する。
12月からは、国連の委任を受けたNATO主導の多国籍部隊が、兵力引き離し、紛争の再発防止などの目的で展開された。なお、2004年末、これはEU部隊に引き継がれている。
また、1998年から顕在化したセルビア共和国のコソボ自治州での紛争に関しては、99年3月から、国連の委任を受けないまま「人道上の理由で」NATOが空爆を実施した。同年6月までに紛争の火種は沈静化し、NATO主導の多国籍部隊が派遣されている。
折しも、99年4月にNATO結成50周年を記念する首脳会議が開かれ、改定「戦略概念」が採択された。このなかで、NATOの新しい使命として「危機管理」、特に軍事的な危機対応作戦が、第5条任務(集団防衛任務)とは別の「非5条」任務として位置づけられている。
ヨーロッパ外の平和構築活動
こうして、NATOの新しい任務が定着していくことになるが、同時に、さらに新しい別の任務をめぐって、同盟内に緊張が生まれていた。それはアメリカにとっての冷戦後の新しい脅威に対応するものである。NATOの軍事力といっても、実質的には多くをアメリカの軍事力に負っており、アメリカの発言力は決定的であった。そのアメリカは、ヨーロッパ内の危機管理には冷淡であり、それがヨーロッパにEU(欧州連合)の独自部隊をもつ決心をさせることになる。アメリカの関心はむしろヨーロッパ外のテロ活動へと移っていたのである。
決定的となったのは、言うまでもなく、2001年のアメリカでの9.11同時多発テロであった。ヨーロッパの同盟国には「世界の憲兵」になることへ大きな躊躇(ちゅうちょ)がある。それでも9.11事件では、NATOは結成以来、初めて条約第5条(集団防衛条項)を発動した。アメリカは結局、NATOをアフガニスタンで使おうとはしなかったが、NATOはアメリカの軍事作戦を側面から支援した。03年、イラク侵攻でもアメリカは有志連合を組んだ。このときには侵攻の是非自体を巡ってNATO加盟国内に亀裂が走ったが、04年、この対立も修復され、NATOの結束強化が再確認されている。
03年8月からは、NATOがアフガニスタンの国際治安支援部隊(ISAF)の指揮権を取ることになった。アフガニスタンでの任務は、NATOにとって、ヨーロッパ大西洋地域(OSCE加盟国領土)外での初の平和支援(非5条)任務となる。06年、NATOによるISAFの活動範囲は、より不安定な南部へと拡大された。07年現在、タリバンの勢力が盛り返す中、NATOの活動は正念場を迎えていると言える。
欧州安全保障協力機構(OSCE)
(Organization for Security and Cooperation in Europe)
1975年7月にアルバニアを除く全ヨーロッパ諸国にアメリカ、カナダを加えた35カ国の首脳が参加し、ヨーロッパの緊張緩和と相互安全保障について討議するためヘルシンキで開いた欧州安全保障協力会議(CSCE)を前身とする組織。95年1月1日から常設化、名称を会議から機構へと変更した。現加盟国は56カ国。75年の会議最終文書は通称ヘルシンキ宣言と呼ばれ、特に安全保障で国境の不可侵をうたい、当時のデタント(緊張緩和)精神を象徴するものとなった。冷戦後は新たにアルバニアや旧ソ連・旧ユーゴスラビア諸国を加え、全ヨーロッパの新しい安全保障メカニズムとしての期待を担って再出発した。カバーする地理的領域の広さ、安全保障・経済・人権と扱う範囲が広いことなど、その本来の特性を生かして早期警戒、紛争防止、危機管理、紛争後復興の機能を担う。また、OSCE安全保障協力フォーラム(FSC)が軍縮や信頼醸成交渉を扱う。しかし、その存在意義の希薄化は否定できず、改革を求める声があがっている。
NATO・ロシア基本文書
(Founding Act on Mutual Relations, Cooperation and Security between NATO and the Russian Federation)
NATO拡大に当たって、NATOとロシアとの間の関係を定めた基本文書(1997年5月27日調印)。文書は前文で両者が互いを敵とみなさないことを述べ、相互の協議、調整、可能な場合は合同の意思決定・行動をするための常設合同評議会(PJC NATO‐Russia Permanent Joint Council)を設置することを決めている。しかし、実際にはNATOの各種会合の決定事項をロシアに口頭説明する場にすぎず、99年のNATOによるユーゴ空爆時にはそのことが端的に示され、ロシアは以後1年以上、NATOとの接触を凍結した。