戒厳令から戒厳令へ
パキスタンドは、アジアのなかでミャンマーとならんで、軍人の政治力が強い国である。1947年8月の独立から2008年2月まで、60年と6カ月の間、文民政権への軍事クーデターは3回発生し、直接間接の軍人支配の時期は合計で33年間ある。1999年10月のクーデターで政権についたムシャラフ陸軍参謀長は、2007年11月まで現役のまま大統領職をつとめてきた。パキスタン政治史が「戒厳令から戒厳令へ」と表現されるゆえんでもある。陸軍兵員60万、軍事費はGDP(国内総生産)の4%、「ミルビズ」と呼ばれる軍直営の事業は、「セメントからコーンフレークまで」といわれるように幅広く大規模である。軍は重工業生産の3分の1、民間資産の7%を手中にしているという試算もある。もちろん大半の経理は不透明である。軍の強大化の秘密はどこにあるのだろうか。
秘密のカギはPAKISTANの国名にある。この国は、インドのイギリスからの独立に際して、英領インドの西北部と東北部のイスラム教徒の多数派地域を人工的に切り離して1947年に作られた。国名は西北部の地域名パンジャーブ(P)、北西辺境(アフガニア、A)、カシミール(K)、シンド(S)、バローチスタン(STAN)の組み合わせである。その後、インドの東部に位置する東パキスタンは、「バングラデシュ」として71年に独立した。
頭文字のなかで、Kのカシミールだけは、パキスタン独立の際にその東半分をインドに占領されてしまった。パキスタンとしては国家の威信をかけてその失地回復に全力を注ぐ必要があった。その帰結が、インドとの軍事対決であり、その延長上にアメリカ、後には中国からの軍事援助、核兵器やミサイルの開発という軍備増強路線がある。軍の強大化は必至であった。
民族と政党の地域割拠
上記のPAKISTANからKをのぞいた四地域が、ほぼ民族・言語分布に対応した現在のパキスタン四州を構成する。そのなかでパンジャーブ語民族は総人口の45%を占めている。以下、シンド語民族が15%、北西辺境州のパシュトゥー語民族が13%、バローチ語民族が4%となる。ほかにパキスタン独立時にインドから流入した難民であるウルドゥー語集団が8%いる。パキスタンの政治・経済権力は大きくいって、最大勢力のパンジャーブ州出身者の手中にある。かれらはパキスタン軍将兵の4分の3を占めている。いきおい、パンジャーブ以外の周辺3州はパンジャーブや連邦政府に対抗する自立的な動きを強めるから、それがまた軍や連邦政府による力ずくの弾圧を招くこともしばしばである。
なかでも最も自立心旺盛なのは、アフガニスタンとの国境地帯で「連邦直轄部族地域」とよばれる半独立地域の、主にパシュトゥー語を使用する諸部族である。ここでは正規軍の常駐は住民の反感を招くため、地元民からなる装備貧弱な治安部隊、パキスタン辺境軍(PFC)が治安維持を担当している。アルカイダのビンラディンはここに潜んでいるといわれるのだから、捕まらないはずである。アメリカは2008年に入り、統合参謀本部議長までがのりだしてPFCを強化しようと躍起になっている。
こうした地域割拠的な構造は、パキスタン政治の大きな特徴で、政党も例外ではない。故ブット元首相のパキスタン人民党(PPP)は主としてシンドとパンジャーブ、ムシャラフ参謀長のクーデターで追われたナワーズ・シャリフのムスリム連盟(ナワーズ派)はパンジャーブ、北西辺境州やバローチスタン州ではその他の地域政党といった形で、全国的影響力をもつ政党が存在しない。ウルドゥー語の難民集団も彼ら自身の独自の政党を持っている。
またほとんどの政党の指導層は大地主、族長など社会の上層部で、PPPがわずかに一般大衆、労働者への影響力をもつ程度である。そのPPPも、シンドの大地主ブット一族の世襲体制のうえに立つ政党である。このような分裂状態では政党は軍に対抗するうえで非力である。
下された「反ムシャラフの審判」
だが、08年2月18日に実施された国民議会選挙では、ムシャラフ大統領を支えてきた与党のムスリム連盟が大敗し、PPPとムスリム連盟(ナワーズ派)が圧勝した。たしかに前年12月27日のブットの衝撃的な暗殺は同情票を掘り起こしたこともあるが、パキスタンのメディアは、この結果を政党への期待よりは「反ムシャラフ」の審判と分析している。ムシャラフ大統領は、国際的には「テロとの戦い」や「対印友好」のシンボルのように見られているが、内からのムシャラフ像はまったく異なる。ジャーナリストや放送会社への横やり、人権弁護士や裁判所の弾圧、とくにムシャラフ参謀長の大統領兼任を憲法違反とみる最高裁長官の罷免など、その強圧的な政治は反発を強めていた。庶民生活は、このところ、3年連続で二けたの食料価格上昇率に翻弄(ほんろう)され、都市では電力の民営化でかえって停電が頻発した。
実は「テロとの戦い」ですら、国民の目には、ムシャラフがアメリカに自分を売り込む材料として利用し、軍は裏ではアフガニスタンのタリバン勢力といまだにつながっていると映っていた。
民主的なパキスタンへの展望
選挙結果から見ても、アメリカが考えるような、「テロ」対策のためにはムシャラフは必要だという考えは本末転倒であろう。むしろ、政治に関与した結果、ムシャラフは軍の信用を台無しにし、「テロ」対策への信頼性を低下させた。ムシャラフ後の軍指導部は政治から極力手を引こうとしている。長期的に展望すれば、パキスタンの民主主義の定着の条件は、軍の影響力の強大化の要因の裏返しである。つまりインドとの友好、国内の良好な民族関係、政党政治の強化である。とくに、PPPら新政権の政治家には、「反ムシャラフ」の審判にたいする重い責任がある。ペルベズ・ムシャラフ
パキスタン大統領。1943年生まれ。陸軍参謀長だった1999年にクーデターでシャリフ政権を倒し、その後、自ら大統領に就任。2007年10月、参謀長のままで出馬した大統領選挙で当選。翌月、軍籍を離脱して就任した。
ミルビズ
ミリタリー・ビジネスの略。パキスタン軍が直接に、あるいは傘下の財団などを通じて間接に経営する事業体のこと。資本や資産の状態が不透明で、その規模がつかみにくい。
アルカイダ
ウサマ・ビンラディンを指導者とするイスラム過激派グループ。アフガニスタンに拠点を置いていたが、アメリカ軍などによる2001年10月のアフガン攻撃以降、主要幹部は同国とパキスタンの国境地帯に潜伏しているとされる。
ベナジル・ブット
パキスタン人民党(PPP)前総裁。1953年生まれ。1979年に軍事政権によって処刑されたズルフィカル・アリ・ブット元首相の娘。88年にイスラム圏初の女性首相に就任。二期目の首相職解任後の99年、汚職罪などで有罪判決を受けるも、服役を拒否して国外へ。2007年10月に帰国したが、選挙遊説中に暗殺された。
タリバン
パキスタンの支援を受けてアフガニスタンの首都カブールを制圧し、1990年代後半から2001年まで同国の大部分を支配していたイスラム主義勢力。01年10月以降、アメリカ軍などによる攻撃を受けて敗退したが、現在もパキスタンとの国境地帯を中心に抵抗を続けている。