クルド民族闘争の幕開け
第一次世界大戦(1914~18年)によって「帝国の時代」が終わり、民族自決をうたったベルサイユ体制が新たな国際秩序づくりの枠組みとなったとき、多くがオスマン帝国の支配下にあったクルド人も、セーブル条約(20年)によって将来の独立を認められた。だが、トルコ共和国の建国を率いたケマル・アタチュルクの卓越した手腕によって条約は破棄され、新たに結ばれたローザンヌ条約(23年)はクルドの独立に言及しなかった。「民族の世紀」の幕開けとなったベルサイユ体制から取り残され、連鎖波状的に発生したクルドの反乱はことごとく鎮圧された。トルコ、シリア、イラク、イランなどに分断されたまま、クルド民族闘争の時代が始まった。
第二次世界大戦直後の1946年、ソ連の支援を受けたクルド勢力がイランでマハーバード共和国の独立を宣言したが、1年足らずのうちにソ連の支援が途絶えて崩壊した。王政を打倒した58年の革命後のイラクでは、ムスタファ・バルザーニの率いるクルディスタン(クルド)民主党(KDP)を中心とするクルド勢力が、中央政府と衝突を繰り返すようになった。
冷戦時代の60年代から70年代にかけてKDPを極秘に支援したのは、イラクと国境問題を抱える親米王政のイラン、アラブ諸国と敵対するイスラエル、ソ連(当時)とイラクの接近を警戒するアメリカだった。ところが75年3月、イラクとイランの手打ちによって、3国によるクルド支援も即時停止され、KDPの闘争は瓦解した。その直後、バルザーニとたもとを分かっていたジャラール・タラバーニがクルディスタン(クルド)愛国同盟(PUK)を立ち上げ、のちに再建されたKDPとPUKの二大政党時代へとつながっていく。
イラン・イラク戦争中(80~88年)、イラクのフセイン政権は、敵国イランと手を組む自国のクルドに対して、村や山林の破壊、イラン国境に近い町ハラブジャなどへの毒ガス攻撃といった、徹底的な弾圧を断行した。
このころトルコでは、社会主義革命を掲げたクルディスタン(クルド)労働者党(PKK)がゲリラ闘争を開始し、ヨーロッパにも広範な支援ネットワークを構築していく。クルド民族の存在すら否定されていたトルコでは、クルド問題への言及も犯罪とされた時代であり、PKKの武力闘争はクルド人の大きな支持を集めた。PKKとトルコ軍との熾烈(しれつ)な戦いは、99年にオジャラン党首が逮捕されるまでに4万人にのぼる犠牲者を出すことになる。
イラクでの自治体制の芽ばえ
次の大きな波は湾岸戦争(91年)だった。多国籍軍がクウェートをイラクから解放した直後、イラク北部ではクルド人による民衆蜂起が起きた。多国籍軍は蜂起が鎮圧されていく様を座視したが、大量の難民が発生すると、クルド救援を求める国際的な世論が多国籍軍や国連を動かした。イラク北部に中央政権の影響力を排除した安全地帯が設置されたのである。クルド勢力は自治を宣言し、92年5月の選挙によって、自治政府が始動した。自治は幾度も存続の危機に見舞われたが、90年代の終わりころには国際社会から「事実上のミニ国家」と呼ばれる体制をつくりあげていく。
イラク戦争後、自治区は憲法に保証されたクルディスタン地域となった。中央議会はタラバーニPUK議長を大統領に選出し、クルディスタン地域では、マスウド・バルザーニKDP党首が地域大統領に、マスウドの甥で女婿のネチルヴァン・バルザーニが地域首相に就任した。
クルディスタン地域の光と影
クルディスタン地域政府は域内の治安の安定を背景に、外国企業を誘致する投資法や、石油開発のための石油・ガス法などの地域法を制定した。大規模な都市開発や道路網整備などの建設部門が牽引(けんいん)する復興経済が活況を呈し、外国人ビジネスマンや職と平和を求める域外のアラブ人もやってくる。その一方で、社会の急激な変化と多様化はひずみももたらしている。貧富の差が広がり、汚職が蔓延(まんえん)し、政治への不信が生まれている。旧バース党政権時代のアラブ化政策によって、非アラブ人が追放されたキルクークなどのクルディスタン地域への帰属を問う住民投票は、アラブやトルコマン(トルコ系住民)勢力の反発で、実施のめどがたっていない。クルディスタン地域の油田開発権限を巡って、中央石油省と地域政府との対立も続く。
クルドの未来
問題は地域の内政や中央政府との関係だけではない。2007年12月以来、トルコ軍がアメリカ軍の支援を得て、クルディスタン地域の山間部に拠点をもつPKKへの越境攻撃を続けている。トルコは欧州連合(EU)諸国からの圧力もあって、クルド問題への政治的な解決に乗り出しており、武力闘争に固執するPKKの求心力は衰えているとはいうものの、一時は沈静化したPKKの活動が活発化している。トルコは、アメリカ軍もイラクもPKKを野放しにしており、バルザーニがPKKを支援しているという非難を繰り返した。だが、トルコ軍首脳は、隣国イラクでクルドが独立すれば、「トルコにとって極めて危険」とも公言する。
イラクのクルド人には同じ民族であるPKKへの親近感とともに、トルコによる越境攻撃の真の目的は、イラク・クルドを弱体化させることだとの不信が強い。だが、イラクとトルコの経済的な関係は強く、最近では政治的にも歩み寄りの機運がみられるようになっている。
セーブル条約
第一次世界大戦終了後、アメリカ、イギリス、イタリアや日本などの連合国とオスマン帝国が、パリ郊外セーブルで1920年に締結した講和条約。これによりクルド人とアルメニア人は将来の独立を認められたが、ケマル・アタチュルクが率いるトルコ新政府は内容が非常に不利であることから受諾を拒否、救国戦争を戦って勝利。セーブル条約は破棄され、クルドとアルメニアの独立をご破算にしたローザンヌ条約が新たに締結された。
ローザンヌ条約
第一次世界大戦終了後、連合国とトルコとの間で1923年に結ばれた新講和条約。クルド人の独立を認めたセーブル条約を破棄して新たに締結されたもので、これによりオスマン帝国領内のクルド人はトルコ、イラク(当時はイギリスの委任統治領)、シリア(同フランス委任統治領)に分割され、イランと旧ソ連領内を合わせて5カ国に分断されることとなった。
湾岸戦争(Gulf War)
1991年1月、アメリカを中心とした多国籍軍によるイラクへの武力行使“「砂漠の嵐」作戦”に始まり同年3月に終わった戦争。イラクは90年8月に、石油政策の対立や領土的野心からクウェートに侵攻した。国際社会による経済封鎖や外交交渉は実らず、国連安全保障理事会による対イラク武力行使容認決議の採択を受けての作戦発動となった。