パレスチナを巡る争いの歴史
2008年5月、イスラエルでは建国60周年の各種式典が行われた。ほぼ同時期に、パレスチナ側は「ナクバ(大惨事)」60周年式典を実施した。両者の対立は、半世紀を経ても、なお続いている。しかし、長期的に見れば、紛争解決の方法はすでに視界のなかにある。イスラエルとパレスチナの紛争は、イギリスの委任統治領であったパレスチナを巡る、主権争奪戦である。一つの地域の主権を、二つの民族が争った。イギリスは主権委譲の責務を放棄した。国連は主権の分割案を決議したが、結果的に、住み分け案は双方から拒否された。主権(建国)を巡る争いは、力の抗争になった。
1948年の独立戦争(第1次中東戦争)で勝利したイスラエルは、パレスチナ地域の大半を軍事的に制圧した。しかし、ヨルダン川西岸はヨルダン軍、ガザはエジプト軍が押さえた。イスラエルは、48年戦争で得た地域に国家を創設し、国際的な承認を得た。ガザを占領したエジプトは、ガザを併合する意図はなかった。一方、西岸を占領したヨルダンは、自国への併合を宣言したが、国際的には拒否された。
それから約20年後の67年戦争(第3次中東戦争)の際、イスラエルは西岸とガザを占領した。イスラエルは、西岸の一部である東エルサレムは併合したが、西岸の大部分とガザの併合は先送りにした。イスラエルの右派は、併合の既成事実作りのために入植地建設を推進し、左派は併合に反対した。軍部は、占領地返還問題を和平交渉の交換材料に使おうと考えた。西岸とガザの主権は、空白状態のまま放置された。
67年戦争の際、国連安全保障理事会は、安保理決議242を採択した。同決議は、イスラエル軍が占領地(西岸・ガザ、ゴラン高原、シナイ半島)から撤退することの見返りに、国家の存続を認める「和平と領土の交換」決議だった。同決議は、現在でも有効だ。決議242に従い、イスラエルは、79年にシナイ半島を返還し、エジプトと和平条約を締結した。ゴラン高原は、現在はイスラエル軍の占領下にあるが、いずれシリアに返還するしかない。
一方、西岸とガザについて、決議242はイスラエル軍の撤退を要求しているが、返還先を明記していない。
PLOが正式な交渉相手に
「パレスチナ人」という言葉は、非常に政治的な概念である。普段よく使われるパレスチナ難民という言葉は、正確には「パレスチナ地域からの無国籍の難民」を意味する。パレスチナ人には国籍がなく、西岸とガザには主権(国家)がない。イスラエル建国の衝撃が一段落した後、パレスチナ人たちは、自分たちの国を打ち立てるための運動を開始した。60年代後半から、PLO(パレスチナ解放機構)が、その責務を担った。PLOは、時にはテロで世界の関心を集めてでも、パレスチナ人の存在と国家創設の希望を主張した。
イスラエルは当初、パレスチナ人は存在しないと主張した。その後、パレスチナ人はいるが、政治的な代表がいない、あるいはPLOはテロ組織であり政治交渉相手ではないと主張した。パレスチナ紛争は、「紛争当事者なき紛争」と呼ばれた。
80年代末に、大きな転機が訪れた。87年末、西岸とガザで大規模な住民蜂起(インティファーダ)が発生し、イスラエル軍の占領政策を破たんさせたのだ。
88年秋、PLOは、パレスチナ全土の解放から、西岸とガザを領土とする国家創設の新戦略を採用した。91年から開始された現行の中東和平交渉では、パレスチナ人代表が初めて公式な交渉に参加した。その後、オスロでの秘密交渉を経て、93年9月、イスラエルとPLOは相互承認を行った。PLOは、公式にイスラエルの敵であり交渉相手になった。パレスチナ紛争は、ようやく紛争当事者が存在する紛争になった。紛争の構図は、根本的に変化した。
紛争解決の好機を生かせるか
その後、両者の交渉は、武力衝突と並行しながら、断続的に継続されている。94年からはパレスチナ暫定自治が開始され、2000年夏からは最終地位交渉が開始された。最終地位交渉というあいまいな言い方は、「パレスチナ国家創設交渉」の政治的な言い換えである。「パレスチナ国家創設」という考えは、当事者の間にある暗黙の了解だった。同交渉は、01年春で中断・凍結された。しかし、パレスチナ国家の概念は、その後も政治的な支持を拡大した。
03年には、アメリカや国連、EU(欧州連合)などが、イスラエルとパレスチナ国家による、2国家解決構想(ロードマップ)を提案した。イスラエルは、パレスチナ国家創設は不可避であると腹を決めた。05年には、イスラエルがガザから一方的に撤退した。最終地位交渉は約7年間停止したが、ブッシュ大統領は、07年秋に再起動させた。難民、東エルサレムなど、交渉の中身は前回と変化していない。
西岸とガザの政治・治安状況は、悪い。武力衝突が止まらない。しかし、過去20年の時間枠で振り返れば、「2民族2国家」の概念が、急速に紛争解決モデルとして定着した。
これは、歴史的な好機だろう。その機会を生かせるかどうかは、イスラエルとパレスチナに、政治的な決断ができる指導者が出るかどうかにかかっている。
ナクバ(Nakba)
パレスチナ人の立場からみたイスラエルの建国を指すアラビア語。大破局、大惨事の意味。建国宣言直後に勃発した第1次中東戦争により、パレスチナ人約70万人が土地を追われて難民化した。
中東戦争(Middle East War)
イスラエルとアラブ諸国間の、パレスチナ問題を原因とする戦争。第1次中東戦争(1948~49年)は、イスラエルの一方的な建国宣言を端緒として戦われた。その後、第2次(56年、スエズ動乱)、第3次(67年、6日戦争)、第4次(73年、10月戦争)と行われた。イスラエルは、67年戦争で、西岸とガザを占領した。73年戦争の後、国家間の戦争は、発生していない。
インティファーダ(Intifada)
パレスチナ住民による、反イスラエルの民衆蜂起。