北朝鮮でロックを教える!?
「ファンキーさん、北朝鮮行ってROCKやりませんか?」2006年5月、北京に住んでいた私を荒巻正行という男が訪ねて来た。
中国の大学に籍を置く東アジア学の研究者である彼は、もう20回以上北朝鮮に通い、その変化を10年以上にわたってつぶさに記録し続けていた。
「時代が変わりつつある」。そう感じた荒巻は、ROCKによる文化交流によって平壌(ピョンヤン)の時代の変化を記録しようと思い立ったのだ。「文化交流」は、スポーツだと勝ち負けが生まれてしまうし、文学や歌だと言葉の壁が生まれる。やはり音楽がいいだろう。楽器を演奏したらその場の空気が変わるぐらいの「腕」を持っていて、しかも共産圏で暮らしている日本人はいないか、というわけで中国での生活が長い私に白羽の矢が立ったのだ。北朝鮮はあまりに制度や文化が違うため、共産圏を理解してない人間だと、カルチャーショックで街から「浮いてしまう」からだと言う。
荒巻には長年の訪朝により北朝鮮に太いパイプがあり、平壌のとある学校(高等中学校。日本の中学、高校に相当)の中なら自由に動けるし、撮影も出来るというコネクションを持っていた。その学校の音楽クラブの少女たちの中に、ファンキー末吉を放り込むことによって生まれる「何か」こそが、現代の北朝鮮の「変化」を表すものであると考えたのである。
私は天安門事件の翌年、1990年に北京に行き、爆風スランプとしての活動のかたわら、当時、不自由な活動を余儀なくされていた中国のロックバンドを助け、彼らと共に中国ロックの黎明期を作り上げたという経験がある。以来、私は東京と北京を行き来して暮らしている。
私は荒巻の誘いに乗って、2006年に初めて訪朝し、平壌の学校の生徒たちにロックを教える活動を始めた。
中国も北朝鮮も同じだろうと軽く考えて行ってみたら、主体思想塔前広場でドラムをたたいて、とがめられて逃げ帰ったり、学校で思いっきりドラムをたたいて軍部から中止命令が来たりと、さまざまな経験をした。計5回の訪朝はいろんなエピソードに事欠かない。
そのころのことに興味のある方は、私のブログ(www.funkycorp.jp)を見ていただくということで、今回は一番新しい2011年、12年の訪朝、教える生徒たちで言うと5期目となる子どもたちとの交流を中心に書いていきたいと思う。
「オーマイガーッ!!」
途中いろんな理由で私が渡航出来なかったこともあって、11年の年末の訪朝は私にとっては実に4年ぶりだった。久しぶりに降り立った平壌は大きく様変わりをしていた。何より、経済制裁をされている国のはずなのに、他の都市はいざ知らず、この平壌の街だけは中国などの投資によって数年前よりもさらに豊かになっていた。翌12年の金日成生誕100周年を控えて街なかは建設ラッシュだし、通りを行く高校生すら携帯電話を持ってキャピキャピとおしゃべりしているのには驚かされる。
音楽指導に通っている学校へ行った。音楽クラブのかつてのわが「ROCKの生徒たち」は皆卒業してしまっている。今回教える生徒たちは、最年長の通称「部長」でさえ私とは初対面である。クラブの楽器こそは相変わらずボロボロだが、彼女たちのファッションは4年前よりさらにオシャレになっていて、私をまた驚かせた。
彼女たちの先輩の時代は、音楽クラブも「革命の歌を演奏する社会主義国の学校の組織」という感じだったが、今では女子高生バンドを描いた日本のアニメ「けいおん!」の感じに近く、彼女たち自身も外国人に対して全然物おじしないし、全体的に雰囲気が「ユルい」。
また、この国では「序列」というのが何よりも大切にされているので、かつての生徒たちは一様に「先生のおっしゃることなら私もそれに従います」と言っていたのに対して、今の音楽クラブの生徒たち、特に「部長」は、イヤなものはイヤとはっきり意見を述べる。
彼女たちの作った曲にコード付けをしている時にも、ロックコードや新しいモノにどん欲に飛びついてくる。初めて聞くROCKという音楽に、おっかなびっくり一生懸命ついて来ていた先輩たちと比べたら、明らかに「新しいモノ好き」である。
歌詞を作ろうということになって、そんな現代っ子たちがキャピキャピ言いながら考えていた時のこと、突然「部長」が「オーマイガーッ!!」と叫んだのにはびっくりした。敵国アメリカの言葉ではないのか? そうかと思えば歌詞に「元帥様の愛のもと」という言葉が飛び出して来る。
日本人にとっては「真逆」である二つのベクトルも、この国で生まれた新世代の彼女たちの中では見事に一つのものとなっているのであろう。
日本人には理解が難しい彼女たちの気持ち
この訪朝時は、「学校へ行こう」という彼女たちのオリジナル曲を一緒に作って帰国した(2011年12月14日の私のブログで、その演奏の動画を見ることができる)。私たちが、「部長がもう卒業してしまうからそれまでにもう一度行きたいね」と言っていた矢先に、北朝鮮の最高指導者である金正日総書記死去のニュースが飛び込んで来た。
私たちは奇しくも政権が変わる前に入国した日本人となり、そして次の渡航(2012年2月)では政権が変わって最初に入国した日本人となった。
街には「悲しみを乗り越えよう」という看板はあるものの、そのことによって「豊かになろう」という雰囲気が後退しているようには見受けられない。街にはそれまであまり見かけなかったタクシーがすごい量に増えていた。後に調べたら中国資本の会社であった。
「こちらでは大変なことがありましたが大丈夫でしたか?」
外国人旅行者に必ずつく案内人にそう聞いても、学校に着いて校長先生や音楽クラブの先生にそう聞いても、「大丈夫ですよ」とあっけらかんと答えるので、彼女たちにも同じ質問を投げかけてしまった。ところがこれが間違いだった。彼女たちは答えを返すこともなく、全員凍りついてしまったのである。
この国で生まれ育った彼女たちの気持ちを、日本人が正確に理解するのは難しい。例えて言えば、「天皇陛下は神様です」と言われて育った戦時中の日本人が、もし天皇の崩御に遭遇したらどう感じるだろう、と想像してみるしかない。
この時、重苦しい雰囲気になった私たちと彼女たちを再びつなげてくれたのは、今回奇跡的に持ち込むことができたiPadだった。
ネットにはつなげないが、Photo Boothで変な顔の写真を撮り合い、Garagebandでひとりで音楽を完成させる。敵国アメリカが生んだこの商品は瞬く間に彼女たちの心をつかんでいった。
いつまでも元気で。また会おう!
卒業を間近に控えた「部長」はこのGaragebandで「先生に贈る歌」を録音した。それが「ロックの先生」、つまり私に贈るつもりで歌ったのかどうかはわからない。しかしお別れの時、「卒業しても元気でね」と卒業生に対して毎回贈る私の言葉を聞いた瞬間に、あのクールで現代っ子の「部長」の目から涙がこぼれた。「先生に贈る歌」は私の宝物になった。
帰国後、私と荒巻は話し合って、今回をもって北朝鮮ROCKプロジェクトに一区切りをつけることにした。
個人で出来るレベルはここまでである。もし今後、このプロジェクトが日本の国益に大きく貢献するような時がくればまた再開しよう、そんな気持ちである。荒巻は今までの研究をまとめて論文として発表し、私はこの一連の物語を本にしようと今執筆中である。
「部長」や数々のこのクラブの卒業生たちをいっぱい思い出して懐かしくなったが、残念ながらもう彼女たちに会う術はない。願わくば誰でもが好きな時に自由に日朝両国を行き来できるような、そんな時代が早く来て欲しいと思う。